或る日、或る時、或る人の

詩を書くことで救われる自己があるならいくらでも書いてみせるのに、僕は所詮傷跡の描写しかできない。パイン飴の向こうでは彼女の笑顔も最強になる。ドーナツでもそうだし、シングルレコード盤でもそうだ。そういうのに敵わない言葉ってのは薄情だと思う。言葉が美しいんじゃなく、その言葉を放った人物、その言葉を受け取る人物、景色、昆虫、思い出、本当に美しいのはそれらで、言葉は糸電話の糸でしかないし、手紙の宛先でしかない。なくてはいけないけれど、本物には敵わない。糸電話の声だったり、手紙の内容だったり、そういう本物に。僕はそこに摩擦みたいに生じる仕方のない定理をどうやっても拭うことのできないまま言葉を使うけど、本当は沈黙を愛したい。その沈黙が全てに代わると信じている。

雪が降ってる。僕は痛む指先で懸命にハンドルを握るけどスピードは上がらないし、位相は不安定だ。遠くでオレンジ色の街灯が夜を空間ごと食んでいる。そこに雪が干渉している。僕はコンビニの駐車場に原付を横滑りに停める。コンビニから漏れる人工的な雪の塊みたいなブルーライトが右手の悴んだ指先を少し照らしている。店内は温もりを持て余して、僕を冬からずっと遠ざけた。レジ横にあるホットドリンクコーナーでコーヒーを買って駐車場でちびちび飲む。遠くでは距離を忘れるほど遠近感の掴めない暗闇が佇んでいて、永遠みたいだった。エンジンをかけて原付を再び唸らせる。すぐにかからない億劫な中古のこいつは名前も知らない前の持ち主にマフラーを改造されている。何年こいつがこんな冬の夜を走ってきたのか見当もつかない。僕は深い瞬きをして独りよがりな夜を見る。コンビニを離れる。そのまま加速して暗闇を更新していく。家々から漏れ出る光を辿りに真っ直ぐ走っていく。冬の夜を置いてけぼりにする。オレンジ色の街灯をずっと忘れることなく、走っている。

「特別な関係になった恋人の間に、そんな会話が生まれることは現実的ではないと思う。私は極めて冷静である。そして、極めて抒情的になることさえできるのである。それは冷静であることの証明になる。イヤホンから、きのこ帝国の『ラストデイ』が流れる。AメロとBメロのわずかな間奏、ボーカルが静寂を歌っている間、冬の雨で私がしとどに濡れる音が微かに聴こえる。それでも私はアルペジオの美しさを誰にも教えない、そういう類の秘密を屋根裏に隠した。15年も経てば色褪せ、簡単に泣いて、今度は涙でしとどに濡れる音が聴こえるのだろうか。私は一旦想像の浴槽に栓をする。排水溝から抜けていった可能性に馳せながら現実に肩まで浸かる。キジバトが外で淑やかに鳴いている」恋人の間にそんな会話が生まれることを願っている。

今日がクリスマスだということに言及しなくてはいけないんだろう。最近連絡をもらっている人にメリークリスマスとだけ送った。なにせお金がなく、二つ折り財布の中には野口英世が一人顔を伏せている。彼一人では汽車に乗って何処かへ行くか、マクドナルドで彼女がビッグマックのポテトLセットを頬張っているのを見ながらポテトMをつまむことぐらいしかできない。金欠限界学生にはこの夜を彼女に捧げるための軍資金が足りないのである。どうせ彼女の方も一人より二人の方がまだマシぐらいに思って僕にメールをしてきたに過ぎない。僕はあくまで彼女の経歴の繋ぎ役でしかない。いやその繋ぎ役候補でさえ僕一人だけではないのだろう。クリスマスというのは所詮その日でしか得られない称号を得るための日なのである。彼女もかつてはサンタクロースがくれるプレゼントは何なのだろうと期待を膨らませながら夜を明かしたはずなのに。きっとクリスマスは残酷だ。誰かを愛するのに理由がいる。その理由づけに使われてしまうんだから。時間をかけて、もっと互いを知って、それで丁寧に好きを定義づけするべきなんだ。二人だけが共有できる言葉さえもっていればそれだけで特別になれるのに。みんなが知ってる言葉を使いたがる。愛してるって。言葉って薄情だから。僕は沈黙だけを信じる。この日に沈黙を信じられる人が何人いるだろう。もうすぐ夜になる。多分熱帯夜だ、きっと。それでいてすごく長い。すごくすごく長い夜だ。

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