燦々午后

あるいは昨日、または一昨年。散り散りになっていく度に光って棚引く螺旋状の幹線道路。テールランプが早く来いと誘っている。メーターが振り切れた瞬間に僕は夏の縁側で足をぶらぶらさせている。空は無限に高く、足裏と地面は小学五年生の距離を保っている。

山から冷たい空気が流れてくる。僕は坂道を下っている。パンクしかけの後輪のタイヤのせいでうまくスピードが上がらない。三段階しか上がらないギアを最大限重くして目一杯ペダルを回すけど、すぐ軽くなる。あと20秒でこの坂道も平坦になる。加速しない滑り台みたいに面白くない。短いジェットコースターみたいに心臓が跳ねない。進行方向向かって左の森からささめくように全身を覆う涼風が、おやすみモードの扇風機みたく、単行本を捲る時に右手にかかる微風みたく、混じり気のない淘汰で美しさを押し広げている。深く息を吸ってみる。吸いすぎて苦しくなって、心地良さに変わる。雲の隙間から一瞬、太陽が燦々とする。

知らない大学のフードコートにいる。名だけが世間を揺るがす芸術大学が輩出した名も知らぬ、けれど名が鋭利な人の油絵が仰々しく飾られていて、僕は雨降りの午后に明度の落ちたそれを見ている。反対側にはジャクソン・ポロックに見劣りするようなアクション・ペインティングの作品が飾られていて、僕は、あ…という言葉しか出なくなった。絵画は敬愛しなくてはいけない。言葉よりも視覚的で現実的であるからだ。僕はこれを陶酔と呼んでみる。あるいは逃避と。磔刑に処された純潔な夏の下に。

三三五五と僕の頭に輪郭を描くページはそれぞれの形をなして翻る。鳥黐のついた乳白色のキャンバスに張り付いたそれらは言葉になる。安らかに、安らかに。燦々と雨降る午后に、落ち切ってしまおう。燦々午后と、借りてしまおう。

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