例えばをキスで終わらせる話
郵便受けはいつも誰かの気持ちを受け止めている。
彼は男の子で彼女は女の子だった。説明は多分それだけで十分だった。それ以上に補足するなら彼はパンクロックが好きで彼女はクラシックが好きだった。例えばで話し始めるとどんな結末も結局、例えばなんだよなぁ…とぼやく彼の隣で、それは言葉の上澄だけ、でも感覚の伴う例えばは本物じゃない?と彼女は笑ってキスをする。そういうのが積み重なり始めると、もはや崩れる想像をする方が難しい。彼らはそのまま抱き合って穏やかな夜を永遠にしたが、朝になって彼女の頬のうぶ毛が金色に輝いているのを見た彼は夜を見つめすぎてこんな美しさがあるだなんて知らなかった。ただの一回も、知る機会さえ想像できなかった。そして、それは現実的ではなかった。しかし、全く疑いもせず彼女の陰影が徐々に移り変わっていくことに耽美していた。それから時間という概念を忘れ去った時、彼女のお腹がぐうっと鳴って彼はトーストの鳴る音を柔らかくイメージした。彼は彼女を起こさないように静かにシーツから抜け出し、扉の開閉を慎重にし、シャワーのバルブを半分ほどしか回さなかった。バスタオルの擦れる音さえ彼女の眠気を覚ましてしまう原因になるとさえ思っていたほどだ。彼はタンスの一番上にあった服をサッと取り出して身体に身につけ、リビングへ行って電気ケトルでお湯を沸かし、二枚のパンをオーブントースターに並べた。かつて夜のうちに放牧した羊を捕まえて、また家の中が白い世界になる想像をしていた。彼は一匹、また一匹玄関から入ってくる羊の数を数えていた。四十匹になるとトーストにバターを塗った。それから百三十三匹目でオーブントースターから取り出して、薄くて白い陶器にトーストを移し替えた。片方にはハチミツを塗って片方にはいちごジャムを塗った。彼はインスタントコーヒーの粉を青色のコップに入れて先ほど沸かしたお湯を注ぎ、それを持って寝室に戻った。しかし、そこに彼女は居なかった。彼は左手に持った青色のコップに入ったコーヒーを少し啜って、そうか夢かぁ…と言って寝室のカーテンを開けた。太陽は真上にあった。彼は昨日の感覚に絶対の自信がなかった。彼女が居た感覚、愛していた感覚、右頬に感じたキスの感覚、ベッドの軋む感覚。その感覚が想像であることを否定することができなかった。ベッドから彼女の香りがしないこと、枕が一つなのに腕が全く痛まないこと、皺の少ない真っ白いシーツがあること、いやそんなことより、目を擦りながらリビングにやってくる彼女がいないことが否定できない理由であると思った。彼は遠くの方で銃声が二発聞こえた気がした。それから、彼は赤い郵便受けから白い紙のようなものが見えたが、それを確認する余裕などなかった。リビングに戻ってトーストをやはり二枚焼いている自分に辟易しながら、冷え切ったそれを口に放り込み、ぬるくなったコーヒーで流し込んだ。その日は何も手につかなかった。
翌日の朝、テレビを見ていると近くの市で銃による無差別殺人事件があったことをニュースで伝えていた。被害女性を古くから知る四十代ぐらいの女性の言葉に彼はどこか引っ掛かる節があった。
「良い子でした。昔からピアノを習っていて休日の午後はよくショパンを弾いていましたよ。生前、音楽ならクラシックが一番好きだと言っていたぐらいです」
彼は被害女性がノクターンOp.9-2を弾いているところを容易に想像することができたし、その音の粒一つ一つさえ頭の中で鳴らすことができた。彼は彼女がピアノを弾いているところを見たことも聴いたこともないはずだが、どうしてか涙が止まらなかった。彼はそれから三年間、その家を出ていくまで、郵便受けの整理をしなかったらしい。そして、引っ越すタイミングで彼は僕を近くのファミレスに呼び、これまでの経緯を話した後、こう言ってきたのだ。
「やっぱり僕は彼女を愛していたし、彼女がいたことも多分本当なんだろうと今なら言える。でも例えばの話なんだ、まだ」
そう言って彼は鞄から少し黄色くなった手紙を一枚取り出した。