n-bunaが好きだという話
空はずっと青かったはずで、彼の音楽をただ美しいと思っていたのに、いつからかどうにも音楽を消費している感覚が抜けなかった。どこかの神経がおかしかったんじゃなく、ただ僕は2014、15年のn-bunaが好きなだけだった。今日、四年前に彼が独り言みたいに話す声を聴いて、懐かしさに苦しくなった。彼の声を思い出しながら久しぶりにボカロを聴いたら泣きそうになってしまった。ヨルシカを始めてからすぐはあまり変わってなかったように思う。ただ、彼がゆっくり変わっていくのは彼の音楽を何年も聴いてる、ただの一般人に悟ることさえ簡単だった。もちろん彼の根底にあるものは変わらないし、曲からそのイメージは未だ抜けていない。彼の思い描くさよならは未だ色褪せない。でも、ボカロをつくっていた当時のさよならはもっと深くて、僕はその深みに目を瞑って、ただ夏に馳せるだけで生活のこと全部を忘れられた。美しいって言葉の意味を音楽を聴くだけで分かる感覚は初めてだった。そんな美しさに僕は何時間でも何日でも何年でも浸っていられるような気持ちだった。音楽で胸がキュッとなる気持ちは何度もあるが、頭の中にすぐに浮かぶのは当時の彼の音楽だ。
文脈が多分、めっきり変わってしまったんだろう。彼のボカロは当時のボカロの系譜に多大な影響を受けているが、ヨルシカは負け犬まではバンドサウンドが目立ち、今はR&B、ソウルの影響まで感じる。盗作から彼の音楽はどこか大きく変わり始めたような気がした。もちろん、彼の音楽、広く芸術作品として出している数々のアルバムは毎回すぐに聴いているし、盗作のLIVEでは前世との繋がりを明確にするn-bunaのポエトリーに号泣してしまった。それぐらいヨルシカは大好きで、n-bunaの音楽はやっぱりずっと好きである。しかし、彼のボカロは今のヨルシカにはない青さと切なさがあって、もちろん今のヨルシカにはあって当時のボカロにないものもたくさんあるけれど、それを今日改めて彼のボカロを聴くことで思い出せたのは嬉しかった。でも、それは彼が、今の彼が今の音楽をやってくれているからだし、やっぱり僕は彼の音楽が好きなんだなと、ひいては(これは彼が好きじゃない愛情表現だけれど)彼、n-bunaのことが好きなんだなと思うわけです。それで、もう二度と彼がボカロをつくることがなくとも、僕は一生『花と水飴、最終電車』というアルバムを聴き続けるんだろうと思うんです。