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主体的選択と受動的選択

 ここ数年、ネット上のありとあらゆる媒体で「あなたへのおすすめ」というものを見かけるようになった。皆さんご存じだと思うが、これは、その人の今見ているものや、これまで見たものの履歴と世界中の人々の同様のデータに基づいてAIがはじき出しているものだ。「この人の音楽を聴いてる人はこういうジャンルを聞く傾向があるからこういうのが受けが良いのだろう」みたいな感じで。
この機能のおかげで、今人々は、様々な自分好みの情報を受け取ることが可能になっている。「インターネット上の情報は玉石混合だ」などという文句はこの機能のお陰でもうすぐ無くなってしまうかもしれない。
こう聞くと世の中はますます安全で便利になっていると喜ぶ人もいるかもしれない、がしかし、そんなにうまくいくものではないのが世の常。なぜならそれは、「情報の質の向上」を意味するものではないからだ。

 ここで(唐突で申し訳ないが)タイトルにもある、「主体的選択」と「受動的選択」という概念を定義させていたただきたい。「選択って、自分でするもんにきまってんじゃねえかよ受動ってなんだよこの野郎!」と思われる人も多いかもしれないが、まあまあ、落ち着いてお茶でも飲んで話を聞いてくださいな。いや、「聞いて」じゃなくて「読んで」か。
 まずは「主体的選択」。これは、皆さんが自分の力で最初から最後までやる選択のことだ。本棚を見て読む本を選ぶ。洋服屋に行って服を選ぶ。ごくごく普通の選択。しかし、そこには、
1:自分でそこにある選択肢を一通り見る
2:その中から自分の求めるものに近い候補を手に取り吟味していく。
3:さらにそれがいまいちなら切り捨てた選択肢をもう一度考慮に入れる、あるいは誰かほかの人の意見を求めるなどする
という3つのプロセスに大まかに分けられる。まあ、人間誰しも毎日やってますよねこんなこと。
次に「受動的選択」を定義する。はいそこ、受動と選択って矛盾してるじゃんとか言わない(二回目)。これは、いわゆる「おすすめ」の選択である。より具体的に言えば、冒頭で述べたような、AIによっておすすめが表示され、その中から好きなものを選ぶものである。この「おすすめ」というのは、先述したようにビックデータからAIがあなたの好みを分析した結果として表示されたものであり、つまるところ、大好物の詰め合わせ的な状態で掲示されている。
これを。先の「主体的選択」と照らし合わせると、ある事実が分かってくる。
 そう、「受動的選択」では「主体的選択」におけるステップ1は自動でこなされているのだ。やったね!もう本屋さんで、いちいちSFの棚を探し回らなくてもいいんだね!
 あら、でもステップ1がないってことはステップ3で選択肢の幅が狭くなってしまうわ。どうしましょう。
そう、まさにその通り。AIによるおすすめ機能には、当然、その人と似たような好みを持った人のデータに基づいて、おすすめが出るので、もしおすすめされたものが気に入らなかったとしても、そのおすすめの範囲では、より広い視野にたって、候補を吟味することができないのだ。さしづめ、SFの棚を探さないで済むようになった代わりに、一般の小説の棚が消えて筒井康隆が読めなくなってしまったといったところか。(*)

 「おすすめ機能」による視野の縮小、これは音楽や小説に限らず、ありとあらゆる方面での特定ジャンルへの辺中、クロスオーバーの減少を招くと考えられる。特に、政治方面においては、右翼と左翼に真っ二つに割れて、中道不在の分裂状態に陥る可能性が高く、非常に危険だ。とくに今はyoutube等の動画サイトをTVと同じように見る人が非常に増えている。
ここでさらに問題をややこしくしているのが、「おすすめ」による選択というのは裏を返せば、好みに合わないものを排除しているのと同値であるということ。つまり、その人の目に映る情報が、その人に見えない場所でシャットアウトされているということだ。これは、実はどのメディアや国家、いや、人間が所属するありとあらゆる全ての組織構造に同じことが言える。つまり、人間は、良くも悪くも属する集団の構造や性格によって歪められた情報しか処理することができないということだ。もっと根本的に言えば、そもそも人間は人間以外のもの(例えばイルカとか)と完全に一致するプロセスを以て物事を考えることというのは、不可能であるのだから、真に客観的な情報というのは机上の空論であり、実際にはありえないのだといえる。
だがしかし、この「受動的選択」は、そんな既存の色眼鏡とは段違いの度数を誇るレンズを持っている。何故なら、これは、数学的な理論に裏打ちされた前代未聞のオーダーメイドの完璧な色眼鏡だからだ。これをつけたままで選挙でもしてみろ。数か月前のアメリカのような騒ぎになる。(あれはそもそも火に油を注いでいる人がいたせいもある気がするが)

コロナパンデミックによってオンライン化が進む現代、「分断の時代」といわれて久しい現代。人々が外せる限りの色眼鏡を外して広い世界を見渡せるように努力をしない限り、諸々の問題の解決、いや、それ以前に、文化的に豊かな人生を送れなくなってしまうのではないか。「おすすめ機能」をルーペとして使い、普段はそれより広い裸眼の視野を使う、そのくらいがちょうどいいのではないのだろうか。

*注:たいてい本屋ではハヤカワ文庫と創元文庫が並んで一つのSFの棚(あるいは棚の一部でSFゾーン)を作っていることが多いが、日本SF初期からの作家として著名な筒井康隆は、主に角川文庫から作品が出ているため、そのSFの棚には入っておらず、一般の小説の棚に混ざっているためこのような現象が起こる...って何を書いているんだ私は。


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