ブルーバイブル①「人生の運転席には君が座らなくてはいけない」
序文
最近、青い顔をした少年少女の相談を受けます。
二十代そこそこ、といったところでしょうか。みな「人生をどうすればいいかわからない」といった顔をしています。まだ何者にもなれていないことに葛藤している様子です。
・自分の力を証明したい
・何者かになりたい
・独立したい
・才能があるはずなのに
・まわりが社会になじんでいることに焦る
・有名になりたい
・普通の人生をおくりたくない
・なにかを成しとげたい
・なにをすればいいかはわからない
・このままじゃダメな気がしている
・くやしい
そんな話を聞いていると、ふと懐かしくなります。僕だって二十歳だったときはあって、その感じていることがわかるからです。
次の瞬間には、なにかを言葉にしたくなります。なにかを言葉にしたい衝動にかられる、といった方が正確かもしれません。
もちろん僕がなにかを成しとげたわけではありません。何者かになれたわけでもありません。ただ数年先に生まれただけ。人生ゲームでいうなら数マス先に進んでいるだけです。
そこで知ったことや感じたことを書いてみようと思いました。
僕だって、それなりに青い地獄をくぐりぬけてきた自負がある──あるいは現在も。そのひとつひとつを言葉にしてみたい。不定期連載の形で。いわば〝心の棚おろし〟もしくは〝信仰告白〟です。
まったくの自己満足かもしれません。わかりません──それはこれから僕の指がキーボードのどこを彷徨うかにかかっているのでしょう。少なくとも本
気で書くつもりです。生きるヒントを。君の人生の役に立つことを願って。
ブルーバイブル①「人生の運転席には君が座らなくてはいけない」
フランスの哲学者が「生涯で人は二度生まれる。一度目はこの世に誕生したとき。二度目は存在しようとするとき」といっていました。
青春の苦しみは、この二度目の苦しみだと思います。
だらだら生きることはできても、しっかり存在することは難しい。いわば自分の道を見つけて進むことを求められるわけですから。そんなもの簡単に見つかるわけありませんよね。
それも孤独な走者のように、スタートからゴールまで、ひとりで賄わないといけないときてはお手上げです。
というのも、最近、僕もようやくわかってきたことですが、どうも「人生の運転席には自分が座らないといけない」らしいのですよ。
それまでは阿呆のように口をあけて、誰かが用意したプランの上にエスカレーターみたいに乗っかっているだけで、ファンファーレに吹かれて、栄光の人生を歩めると思っていました。
でも、それは間違いだった。
誰かの敷いたレールに乗っかるようなプランはことごとく上手くいきませんでした。そりゃそうです。人はみんな自分がかわいい。だから、本質的に「自分のために心から動いてくれる人間は存在しない」からです。僕たちは、他人と、気がむいたときか利益が一致した場合にのみ手をむすぶことができるにすぎません。
僕は阿呆だから、このことに気づくのに時間がかかった。
もう一度書きます。
人生の運転席には君が座らなくてはいけない。
くれぐれも助手席や、いわんや後部座席でぼけっとしているだけで目的地にたどりつけると考えてはいけないのです。どこかに到着はするでしょう。けれど、それは他人にとっての都合のいい場所でしかないのです。
それでは、いつしか行きたくない場所で、やりたくないことをするだけの毎日になってしまいます。
それが嫌ならば、ハンドルをにぎること。そして死ぬまで離さないこと。
それは全責任を負うことでもあります。いままで助手席や後部座席に座っているだけでどうにかなっていた身としては──まわりに保護されていた──未知の恐怖ですよね。手も足もガクガクふるえます。首でもくくりたくなるでしょう。
文字通り、生きるか死ぬか。目の前にはなにもない。仲間もいない。一寸先も見えない聞こえない感じられない──青い地獄のはじまりです。
しかし、こんなにスリリングなこともない。少なくとも味わい深い。最近はそう感じてもいます。あるいは、そう感じることができるようになってきました。どこにたどりつくかはわかりませんが──これは虚勢か──道のりを楽しむ余裕もできてきました。生きることの怖さここにあり、と。
最後にもう一度だけ書きます。本当に大事なことだと思うからです。この言葉は、僕が、ちんけな人生でつかみとった果実です。もし稚拙に思えるなら笑い飛ばしてください。そして君の道をかっ飛ばしてください。
人生の運転席には君が座らなくてはいけない。
さて、こんな感じで第一回は終わるとします。この文章自体も、どこにたどりつくのか僕自身わかっていません。
そして、いま、ふと思いました。本当のところ、僕が書きたいのは、ずっと前の、どこかに走りだしたい衝動を抱えて、それでもどこにもいけなかった自分にむけた手紙なのかもな、と。