人生において、子どもや孫ができる意味
今日も天気が良かったのでスーパーで買ったお弁当を駅前タワーマンション下にある広場でひとり食べていました。すると目の前を老夫婦が、おそらくお孫さんと思われるお子さんをベビーカーに乗せてゆっくりと歩いて行かれました。
「もっと奥へ行くの?」
「ここじゃまだ景色が面白くないんじゃない?」
そんな会話をしながら。
幼い子どもになるべく素敵な景色を見せてあげたい。そんな優しい気持ちがうかがい知れました。
ご夫婦とお子さんの後ろ姿を見ながら、僕は自分の親にこんな体験をさせられなかったことを少し考えました。
父や母は、やはり孫の顔を見たかっただろうか。
孫を抱きたかっただろうか。
翻って、自分自身はどうだろうか。
いつのまにか年を重ね、気がついたら(一般的には)子どもを持つことが難しくなっていました。もちろん僕は、子どもは持たない、と積極的に決めたわけですからそれで良かったのですが。そもそも自分が生きることで精一杯だった。自分だけでも、精神的な苦しみの中を生きてきたのだから、そこに他の命への責任はとてもじゃないけど負うことはできなかった。
仕事で保育園や幼稚園に顔を出すようになってわかったことだけど、子どもという存在は、確実に自分が知らない、いやどこかで失った世界を生きているようです。僕にとっては時には友人であり、師であり、守るべき対象です。社会の中で優先されるべき人たちだと考えています。
そんなことに気づいた今、もし子どもを持つことができる年齢に戻れたとしたら…、きっとそれでも僕は子どもを持たないでしょう。僕はそういう人生を選ぶのです。
でも、もし、父や母が僕と同じ考えでないとしたら、二人には謝りたい。もし、そうだとしたら、ごめんね、と言いたい。
今年もあと2週間ちょっとです。
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