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ようやくじぶんと向き合う ― 必要経費である


あなたをバカにする人がいる。

あなたを理解しようとはしない人がいる。

あなたは、とても苛立たしく悔しいでしょう。

わたしにもそんな経験はたくさんあります。

「あってはならないこと」が起こっているのです。

だから、わたしたちはそういう事態をだんぜん「許せない」。

いや、「許せない」で済ませている。



1.必要経費である


相変わらず、デイトレードで苦戦しています。(すみません、大半の方には興味ない話でしょうが)

数万円稼いだと思ったら、なんと翌日には数万円を失ってしまう。

そして、負け続け資金が徐々に溶けて行くぅ。。

おお、、わたしにとって「あってはならないこと」です。

だんぜん、わたしは許せないっ。

が、そういう日々が続くと、許せない!がわたしだめじゃん!へとトーンダウンして行く。

でも、いつまでもへこんではおれないのです。

で、どうしたらこの崖っぷちから抜け出せれるかを考え出します。


何度も、このサイクルを繰り返しています。

わたしは、市場の動きに合わせることがへたな男だ。これは事実としてある。

わたしは、負けることが大嫌いだ。これもわたしの中の事実です。

悔しいし、どこか情けない。恐れてもいる。

そんな弱っちいじぶんを認めたくないのだけれど、でも、負けてるんだもの否定できません。

事実という焼野原をとぼとぼ歩いていると、だんだん、認めざるを得なくなる。

わたしというリアルを身に受け入れ始めるわけです。


きっと、世界中のデイトレーダーはこの経験をするのでしょう。

その中でも、わずか数%生き残った者がいて、その人たちが書き残した書籍を読むに、どうも、

 弱っちいという事実=わたしはだめじゃん、ではない

という認識に彼らは居ました。

プロでさえ、株価が次に上がるか下がるかは分からないといいます。

期待値が高いと判断してエントリーしたにも関わらず、その読みに反することが起こるのです。

生き残った者たちは、負けはいつも発生するという前提でした。

ただし、プロは負けた時、すばやく決済(損切り)しその取引を完了にします。

わたしは、買った株が下がり出したら、しばらく様子見しています。

実際、見ているうちにまた値を戻したりするんですから。

損したくないから、見て我慢してしまう。

でも、見ている内に、さらに急落し大損しています。

損したくないっというわたしの感情が、損切りをさせないとも言えます。


生き残ったプロたちは、メンタルが違っていたのです。

驚くことに、彼らは負けは勝つための必要経費だと認識していた。

たとえば、10回のトレードで1勝9敗でもいいのです。

9回のトレードでそれぞれ負けても、たった1回の勝ちで大きく回収できればいい。

10円、10円と9回負けても(計90円の負け)、たった1回の勝ち勝負で90円以上を得ればいいのです。

負けは常に起こる。だけど、その負けはとても小さくないといけないと。。


証券会社が開示した統計データを見ても、勝ち続けた者たちは素早い損切りと、利益を伸ばすスキルに優れていました。

負けてばかりの者たちは、損切りに躊躇し、利確を早くしてしまう(びびる)。

プロに言わせると、負けとはリアルに起こってしまう事象でしかないと言います。

でも、この境地に至るには、メンタルのチェンジがいるのです。

それは、一朝一夕には為せません。

まずは、必要経費を抑え、生き延びねば。



2.わたしという存在の捉え方


仮にわたしという人間を、10個の観念で切って見たとします。

思いやり、理解力、洞察力、忍耐力、柔軟性、意志とかとか。

これらでじぶんを評価すると、むかしから、劣悪だった。

10個のことごとくで、平均を割っていると思う。

なにもデイトレードだけの話じゃないのです。

じゃあ、わたしは、だめだめなのか?

わたしは、生きている価値が無いの??

いえ、わたしは、だめだめでもアホでも、生ある限り生きて行く生き物です。

そのために、わたしは働き、隣人たちにちゃんと挨拶し、体を維持し、勉強もし続ける。

ほら、それなりに出来ている所もあるじゃん。

10個の観念が思わしくないからこそ、行動で補填してきたでしょう。


これはきっと、人に依ると思うのだけれど、自己肯定感が高くても低くてもたいへんです。

マーケットでボコボコにやられた日は、容赦ない非難がじぶんから発せられます。

逃げ場が無いので、かなりつらいです。

さらに、勝てた日は肯定感が逆に高まり易い。

あっという間に、資産を築けそうな気になる。

ひょっとして数年もすれば、すんごいことに成るんじゃない!って。

宇宙の王とまではいわないけれど、花札大統領やイーロン仮面にも負けないぞっ!みたいな気にもなる。

けど、この無闇な高揚感、効力感は、次の日のひどい落ち込みと必ずペアになって行く。

翌日には、慢心したのか、大きく出て大負けするのです。

と、また容赦ない苦痛がじぶんから発せられ、ぼこぼこに。。


きっと、あなたも自分が為す自己評価にずっと苦しめられて来たのかもしれません。

その観念の決めつけは、分析を不可能にするでしょう。

そうすると、出来ないことやあなたに不利となる他者は、ずっと存在し続けてしまう。

あなたは、自分が彼らに対応出来るようになればという期待だけを抱き続ける。

もちろん、あなたにデイトレーダーはお薦めできません。

でも、ここはすこし違ったワールドでした。

優劣、勝敗が金銭という資本主義らしい唯一の尺度で瞬断されてしまいます。

まわりの人にばかにされたとか、嫌われたとかじゃないのです。

気に入らないとか、理不尽だとかではない。

もう瞬時に、シロクロはっきりしてしまう所です。

しかも、自己完結している。誰のせいでもない。

隣人や上司のわたしへの曖昧な想いとか、自分の才能や障害の叶わぬ話ではないのです。

こんなに明確な世界では、フィードバックが可能となります。


強大な市場に合わせず、歯向かったんだもの当然でした。

おれは正義だと、正しいと疑えなったんだもの、当然だった。

こういう日々を繰り返すと、だんだん、デイトレードのここはヘタクソだけれど、ここは出来るとかじぶんを客観視し始める。

夢中に成るじぶん、夢中になりたがるじぶん。

大きく賭けるじぶん、賭けたがるじぶん。

危機に慌てるじぶん、成果を誇りたがるじぶん。

これらすべてを内包したのが、わたしなのだから、わたしは、もう観念を気にしなくなってきました。

能力が無いとか、洞察できないとか、忍耐力がないという観念で切りません。

じぶんという総体とどう折り合って行くかしかないわけです。

それに、いつまでも観念で裁いても資金が持ちそうにない。

市場をソンタクしても無駄です。

負けるには、負ける理由がある。

条件を満たしていないのに、エントリーしたがっていたのです。

しかも、負けは常時起こる。なのに負けを嫌っていたのです。

そういうじぶんをわたしは、もう否定しないのです。

わたしは、そうなのです。

これからも、そうでしょう。

じゃあ、どうするんだ?

道徳論や人生論、倫理、規範、観念。。。そういう観念でじぶんを測っても無駄な所でした。

そういう概念では自己を分析できませんから、じぶんの次の行動は生れない。


デイトレードは、1日に100個も、200個も取引結果が出て来てしまうのです。

全部、ノートに書き出します。毎日。

それは、苦しいし、それは悔しいし、それは情けない。

たまに、嬉しいがちょこっとある。

でも、負けないとわたしは、分析をしません。

勝ったトレード結果は分析できません。だって良かったんだもの、反省できません。

わたしの、どこが弱いの?

なぜ、弱いの?

じゃ、どうしたらいいん??

お金、掛かってますからね、真剣に分析することになります。

だんだんと、じぶん自身と向き合います。



3.メイトリックス


負けたんだもの、感情的には嫌なんだけど、でも、事実は動かせない。

事実を分析するということをマーケットでは、とことん強いられる。

負けた、おれは才能ないで済ます者は、分析をしません。半年で退場するといいます。

わたしは、5個のメイトリックス(Matrix、評価指標)をとても大切にしています。

メイトリックスを持たないと、次の改善行動を紡げないからです。

感情や感覚は大事なものですが、分析を可能としてくれる評価指標も大事です。

マーケットで負ける。

分析してゆくと、エントリーした株価の先行きに対して期待値はほんとに高かったのか?

投入単位(ロット)は小さく維持できていたの?

損切りは素早くできたの?とかとか。

これらのメイトリックスに照らして、改善を模索して行きます。


わたしの根底には、「欲と恐れ」がドーンと鎮座ましましていることに気が付きます。

わたしは、とても、じぶんが人間的だなぁと思います。

株価が急落すれば、その予想外の動きに動転する。やばっ、というわけです。

予想通り株価が上昇して行けば利益がどんどん膨らみ、嬉しい。誇らしいぞっ。

「欲と恐れ」がわたしを支配し、メイトリックスを破ってしまう。

でも、こんなとても人間的な感情を除去することはわたしにはできません。

死ぬまで一緒でしょう。

だから、メイトリックスが必要なのです。


意外なことに、段々とわたしは感情を除去すべきものじゃないと思うように成って来ました。

わたしという存在は、絶対、嫌なんですし、絶対、嬉しいんです。

その人間的な喜怒哀楽を持ったわたしを、受け入れるしかないとも言えます。

市場から去って行く者は、この人間のリアルを認めなかった者でしょう。

自分には向いていなかった、才能が無い、地合いが悪かったとか観念的に思ったでしょう。

いいえ、たぶん、自分のメイトリックスを作らず、自分自身から感情面も隠したでしょう。

そして、なにか出来合いの観念を自分に当てがって済ませたのです。

向いてないとか、才能が無いとかいう言葉は概念ですから、分析させてくれないのです。

それは、嫌われてるとか、劣っているとかいう言葉にとてもよく似ています。



4.再び、必要経費である


ほんとの、じぶんを知るには、分析しないとならない。

痛みを伴うのですが、すべて書き出すといいのです。

じぶんの外に出して客観視することがどうしても必要だと思います。

そして、そういう弱みも亡き者とはせず、今もここに一緒に居ると受け入れる。

欲と恐れも生涯抱いて行かないとなりませんもの。

何か、変わるの?

ええ、事実を受け入れ、自分を客観視した時、ようやくわたし自身の次の行動を思いつきます。

そしたら、しあわせに成れるの?

ええ、しあわせに成れるかもしれないし、成れないかもしれません。

でも、少なくともリアルな自分に近づける。

そうした時に、はじめてほんとの勝負が出来るように思うんです。

自己評価がほんとの自分に限りなく近づいて行く。


きっと、人がわざわざここに来て四苦八苦するのは、じぶんに近づくために来たんでしょう。

けっして、快楽が理由で来たとは思えません。

ここは他の存在を食さねばならない世界ですから。そもそも、むごいんです。

そして、快楽を追う人は多いでしょうが、何かの欠け感から快楽で埋めようとするのでしょう。

でも、快楽は一過性ですから、いっそうまた快楽を求めてしまう。。


向こうではお花が咲き、妙なる音楽と香りがたなびくのです。

空では背中に羽生えたお子たちが、ぴよぴよと飛んでいる。

なぜ、わざわざこんな世界に来たの?

わたしには、じぶん自身を学びたくて来たとしか思えないのです。

損切りは嫌だったはずなのに、不思議なことに、実際、切るとなんだかほっとし、解放されます。

でも、その日は大負けなのです。その苦痛が分析を促す。

そして、原因と対策に気付くと、わたしはふたたび解放されます。

じぶんを知るたびにわたしは嬉しいのです。こころ安堵します。

状況は少しも変わらないのに、わたしの総体は変わらないのに、わたしは平安になる。

これって、不思議です。



じぶんのリアルを知れば、もう、環境や他者のせいにはしません。

自分の欠点や生まれや障害のせいにもしません。

出来ないわたし=ダメなわたし、ではないということです。

障害や欠けは悲しいことですが、それは事実へとトーンダウンします。

わたしたちには、それでも出来ることはいっぱいあるのです。

それが、ほんとにささやかだったとしても、わたしたちはまた新しいことを見出すでしょう。

死ぬまで続く苦難は、人間存在の必要経費であると捉えることができるかもしれません。



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