おじさんはレースのブラの話が出来ない
なんだか言うのが憚れる話ってありますほろほろ。
1.コメントが出来ない
男性が、しかもかなり年取った者が関心を寄せてはいけなそうな領域ってある。
でも、せっかくフォローさせてもらったのだ。
ぜひ、あなたの書くものを読んでみたいっ。
soraさんの記事のタイトルは短歌で「レースのブラ・・」だった。
禁を破り、読んでみた。
ブラタモリのブラじゃないし、F1のレースでもなかった。
ああ、、やっぱりブラの話なのだ。たぶん、ひらひらした下着のことだ。
若い女子たちがきゃぴきゃぴしている。
デートに身に付けていくのだそうだ。
soraさんは、自身の来し方と今立っている所とを対比した。
彼女たちを少し遠い目で見守った。
お話は素敵だった。
でも、コメントできなかった。
人の短歌にコメントなんか無粋かもしれない。
それになんだか恥ずかしいぞっ。テーマが男子禁制っぽい。
だいいち、soraさんもコメントされたら戸惑うだろう。
わたしは無意識な不審者かもしれないし。
初コメなんてとんでもないという状況だった。
せっかくお知り合いに成ったのにぜひご挨拶を、、、
ううーん。。コメント、諦めた。
が、何だか悔しいっ。そうだっ!
じぶんの所にレースのチラチラについて書けばいいのだっ。
おお、、それは素敵だ、とあたまが言う。
手も、そうだそうだと賛同した。
ので、書いている。
何でも堂々と振舞えばへんではなくなるという黄金律がこの世にはあったことを思い出した。
2.この世の美しきもの
居間で、かのじょがドラマ『HERO』(ヒーロー)を見ている。
第1期放送は2001年でした。
木村拓哉演じる型破りで正義感の強い検察官と、
松たか子演じる生真面目だけどどこかとぼけたところのある検察事務官とのコンビのお話でした。
脇役の同僚検事たちの巻き起こすコメディを交えて描かれた。
たしかに、傑作だった。
その時、1972年生まれのキムタクは29歳。ピチピチだ。
もともと芝居が上手な人。
でも、最近のどこぞの警察学校の教師役なんかより、断然輝いていた。
主人公は、ラフなジーンズにダウンジャケット姿の型破り。
若さとは、それだけで美だ。生命力が周囲を惹きつける。
かのじょは、未だに見る。
かのじょからしたら、キムタク老いても自由は死なず、みたいなことなんだろう。
レースのブラなんていう事項は、わたしには今後もまったく関係ない。
のだけれど、きっと若さという美に結びついている。
単に、エッチなおじさんというわけでもないだろう。
話題が、いつも、春はあけぼのばっかりでは飽きてしまいそうでもある。
でも、イケないものを覗き見たようで、なんだか落ち着かない。
3.演技が出来ないっ
かのじょは、20年間ほど医療少年院にボランティアに行っていました。
少年院は、「罰」を与える施設ではなく、矯正教育を行う施設です。
窃盗、傷害なんかを起こした少年が入所条件となる。
さらに”医療”とわざわざつくにはワケがある。全国にも4つしか設置されていない。
基本、専門的な医療が必要な者を収容する少年院で、同時に医療施設でもある。
かのじょがボランティアに通ったところは、知的障害、情緒障害、発達障害がある者やこれらの疑いのある者を収容していた。
特別支援学校の少年院版というイメージだと思う。
少年たちはどの子も普通だわ、可愛いのよとかのじょはいう。
もちろん、ずっと塀の中の彼らからしたら、外界から時々来る”女性”に特段の関心がある。
お互い、属性が分からないよう、個人的な近さを持たないような配慮がなされる。
かのじょは、おっとりしていて、優しいので母のイメージも重ね易い。
出所にあたって、誰も迎えにも来ない少年もいる。
not welcomeな環境で育った少年も多いのです。
で、可愛い少年たちのエピソードもあるのだけれど、今日はかのじょが”もっとも困ったこと”の話です。
社会復帰を前提に教育プログラムが組まれます。
心理系の先生やそれをサポートするボランティアも参加する。
何も厳しく躾けてばかりいるわけではない。
そもそも、少年たちは、「相手の身になって」ということが苦手な人が多い。
そこで、院はパターンを教える。
そういうことは嫌われ、そういう行為は好まれると。もちろん、これは応用が利かない。
真剣に聞いている少年たちを思い浮かべると、これは切ないことだ。
ということで、ロールプレイングも繰り返す。
子ども役から父親役にスイッチする。いじめ役の次には、いじめられ役をする。
心理劇もする。
こういう設定のとき、自分がどう振舞うのかを本人に見させる。
客観視の訓練と言えるでしょう。
発達障害の系譜の末端に繋がるかのじょも、心理劇が異常に苦手だった。
でも、パスということは言い出しかねた。
脚本もなく自由に演じるのだけれど、かのじょは役に成り切れない。
キムタクのように、他者を演じ切れない。
うまい俳優は、この「なり切る」という才にずば抜けているのだけれど、かのじょはその対極に居た。
なぜかというと、常に自他を客観視しているから。
ああ、わたしは今演じているんだわとバッチリ感じてしまうという。
ああ、、こんなこと口が言ってるわと分かってしまう。
いつも誠実で正直である代償として、かのじょは演劇界から永久追放されている。
1対1の会話ならかのじょは困らない。
相手が変われば、引き出される自分も変わるという。
どれもウソはついていない。どれもわたしなのだ。
という人が、大勢と話す局面になるととたんに困惑する。
どのわたしを出していいのかが分からないという。
まったく困ってしまうという。
先生に当てられ、立ち尽くす小学生の気分になってしまうという。
とても情けないわと。
自他を客観視する代償として、みんなでワイワイというのが苦しいのです。
大勢の前でする心理劇は、とってもオタオタ、ワラワラするの、という。
時々、教官に整列させられている少年たちの横を通ってかのじょは部屋に入る。
と、少年たちは目の端でかのじょを認める。
それぞれに、手を腿にピタリ付けたまま、がんばって手をヒラヒラ振って来る。
かのじょも、教官の目につかないように手を振り返す。
可愛いのよぉ、普通の子よぉ~とかのじょはいう。
少年たちも、平均から脱落しどこかが苦しい。
素のままの自分が、それはいけないと否定され続ける。
なぜ、いけないのかが少しも納得いかない世界で、さあ、人間なり社会人なりを演じろと怒られ続ける。
さあさあ社会復帰だと、なんで心理劇しないといけないのかが納得できないでしょう。
4.回収する
ぜんぜん、レースのブラの話に戻れない。
さらに、戻れなくするような考えがあたまに次々に来て広がって行く。
手は、そうだそうだと来たものを喜んでつかむ。
わたしに脚本家がいない。
俳優ばかりだとお見せ出来るような劇にならない。
ドラマや映画を見る。記事を読む。
ああ、そうだそうだという想いは、読み手の中にある。
書き手は環境を用意しただけ。
それを汲んで、関心を持つかは読者に委ねられます。
なんだかブラの話に惹きつけられたおじさんは、単にすけべなだけだったのかもしれない。
あるいは、じぶんも永遠の美というものに吸引され続けているのかもしれない。
少年は発達障害だと言うけれど、誰だってその帯の中にいると思う。
若い子たちの下着にちょっとドキドキするのは、
いくつになっても異性に関心を持ってしまうサガのせいだろう。
若さに美を拾ってしまうのも、ビルドインされたサガのせいだ。
遺伝子のせいにするしか無いものってある。
障害か否かは、圧倒的大多数がどこにいるかという相対的な話でしかない。
異性や若さにみんなが引き寄せられるから、問題視されないだけだ。
異常に強い関心を持てば、それは変質者と言われ、帯のどこかに配置される。
が、はたして本人にはそれを意図してそうなのかは分からないままだろう。
わたしだって、意図してドキドキしたわけじゃない。
その意図できない要素が大きくズレた者を発達障害とかLGBTとか言っているのだろう。
”普通”のみんなも、なにかを抱えている。
ただ、他者には言わないだけだ。
ああこのお話はいいなって思うことがあるでしょう。
けれど、いったい何がいいのかは、いつも読み手の中にその答えがある。
読み手が答えを引き出す。読み手が世界を解釈する。
という意味でなら、あなたの世界とわたしの世界はまるで違う。
1つの共通した物理的世界があるだけだとはならない。
あなたはあなたの、わたしはわたしの次元世界に暮らしている。
誠実な者はそれに相応しい世界が展開される。
品の無い者にはそれに相応しい世界が展開される。
じつは、脚本は本人が描いているのかもしれない。
回収できないっ。
でも、レースのブラ読んでわたしが言いたかったことがぼんやり見える。
サガならサガを受け入れるしかない。
でも、どこの帯に入ろうが、魂は売ってはいけないのだ。
大勢に否定されても、この胸は守ってあげねばならないし、それが出来るのは本人しかいない。
せめて、おじさんにもドキドキを許して欲しいし、
責められてばかりであろう少年たちが健やかなることを、この暑い日に願う。
P.S.
これであなたへのコメントとなったという自信がぜんぜんありません。
くっきり情景が浮かび、おじさんがちょっとどきどきしました、という話でしかないような気もします。
どうぞ、許してください。ぺこっ。