裸の経験に戻ってください、という
思うだけでかわいい。果てしなくかわいい。
ほっぺに指で触れてみる。ああ、、、なんと愛おしい。
トロトロとろけるチーズみたいで、じぶんがへんだ。。。
哲学的な長くややかしい話です。
1.はなのお宮参り
手元にその日の写真がある。
両家そろってのお宮参りというのをした時のことです。
神社にお参りし、写真を撮り、軽い会食をした。
のぶ(次男)とお嫁さんは、緊張気味。彼らはイベント好きなのに。
わたしたち祖父母たちは、数年ぶりの再会を喜び合った。
で、ひたすら、生まれたはなを皆で愛でた。
3年前のことでした。
生まれて1か月目のはなにようやく会ったのです。
コロナがひどかったので、電車にもおっかなビックリで乗って行った。
お嫁さんが抱くはなのほっぺを指で、ツンツンとつついてみた。
やっぱりツンツンとつついた。
男はそれぐらいしか思いつかない。
反応はしてくれない。もう一度ツンツンつついてみる。
さあ、抱いてみてくださいとお嫁さんに促された。
けど、頼りなげな赤ちゃんをどう抱いたらいいのかを思い出せない。
首の後ろに手をまわし、反対の手ではなのお尻に手をあてがい、、。。軽いっ。
さんざん抱いたはずなのに、思ってた以上に赤ちゃんを抱けない。
はなが眉間にシワを寄せ、むずがりはじめました。
このまま泣き出すのかと思いきや、泣かないでいる。
耐えてる?きみは、慎重な子?
おっかなびっくりで不自然なわたしはうまく抱けないまま。
なはの顔を覗き込む。
小さな、まあるいお顔なのです。
目、鼻、口、耳。手も足もある。指もちゃんとある。みんなミニチュアだけど、ちゃんとある。
一応、人間になってるって、なんだか不思議だ。
はなに会う前も、会っている時も、さよならしての帰りの電車の中でも、そして何日経っても、はなのことを思うと胸が喜びました。
かわいいだけ?
いいえ、わたしの胸が喜んでいた。なにが嬉しいんだろう?
自分の子たちが産まれた時、こんなに純粋な喜びにはひたれなかったのです。
とても不思議でした。
もちろん、”当事者”ではないので、余裕を持って見れたからなんですが、それにしても、ひどく喜ぶじぶんにびっくりした。
初孫に会うシーン。たぶん、多くの人とまったく同じシーンがその日再生された。
こんなイベントなら、わたしだって喜んで行く。
のぶたちは、初めての子が流産してから、ふたたびの妊娠におっかなびっくりしながら日々を送りました。
コロナ禍が怒涛のように世界を覆い始め、在宅勤務がはじまった。
とつきとおか。
ようやく予定日が来た。けど、なかなか出て来ない。
ようやく出てきたんだけど、へその緒が首に巻き付き仮死状態。
お嫁さんは、オロオロとするばかり。我が子との面会も無く、子はそのまま緊急に連れ去られた。
無事に生まれて当たり前っていう事をする当事者は、辛いものです。
ここから先、はながぶつかるのが、良い子で当たり前、勉強して当たり前、働いて当たり前。
当事者は、いつも余裕なんかないです。
そうそう。想い出しました。
わたしは、かのじょと川沿いを散歩していた。
突然、「あらぁ、はなという名なら素敵よね」とかのじょがいった。
産まれたばかりで、子はまだ名を与えられてはいなかった。
その後、「名前をはなにしたんだ」とかれらから連絡が来てわたしたちはびっくり。
偶然にしては、へんだった。
離れていても人たちの時空がときどきこんなふうにクロスするんですかね、11次元の宇宙ヒモさん?
2.つかめないもの
ジョーン・トリフソンという女性の『つかめないもの』という非二元論を読んでいます。
二元論というのは「わたし」という主体があれば、「他者」という対象があるというフレームなのです。
非二元論は「一者のみ」という立場です。
いっけん何をアホなことを言っているんだということになるのですが、意外にも非二元論は強力なフレームです。
著者の彼女はいいます。
『私は何のことを話しているのでしょうか?
これ、です。
まさにここ。たった今。
今この瞬間のこの、経験という生き生きとした性質と直接性、
今ここにいて気づいているという認識、逃げることの出来ないこの<ここ・今>。
あなたがつねにそうであって、そうでないことはありえないこれ。
ただこれ、の裸の現実、まったく今あるままのこれ、です。』
はなに会っている時、わたしはその小さな存在を分析も批判もしていなかった。
生まれたままで意見も自我も無いから、わたしはなんの応答も期待しなかったのです。
ツンツンしてみた。産まれたばかりの小さな存在を驚きをもって覗き込んだ。
わたしは、思考を落としてその命と相対した。
じぶんの子どもが生まれた時、わたしは30歳で若い父親でした。
可愛いとか喜びとかよりも、責任が押し寄せていた。
次々と”初めての”イベントがやってくる日々でした。
のぶとお嫁さんが落ち着かなかったと同じように、直接の責任がじぶんにかかっていた。
産まれたら産まれたで、この子は大丈夫か、お腹が空いているんじゃないのか、風邪を引きやしないか、おしめかなとかとかばかり気になっていた。
思考を落としそのままの我が子に、<ここ・今>とは接しれなかった。
ジョーンは言います。
『もし出来たら思考が消えて行くままにして、今この瞬間の単純でそのままの裸の経験に戻ってください。
あなたの経験してゆくことにあるがままにさせておきます。
どんな経験が起こっていてもです。
何かを排除しようとも、何かを達成しようともせず、理解しようともしません。
ただ、ここにいるだけで、それには努力は要りません。』
ジョーンがいいたいのは、「まったく今あるとおりにここにいない、ということが(本来)あなたには出来ない」ということです。
思考はいろいろ言うかもしれないのだけれど、いいやそうじゃないんだ。
あなたは今ここの在り方以外にはそもそも在れないのだ。だから、ただそういてくださいと。
あなたは何かをする必要も、何かをしない必要もないというのです。
驚くべきことに、「ここにいるだけで、それには努力は要りません」という。
努力はいらないと言われても、つい努力しちゃう、わたし。
これは、おそらくあなたの常識にまっこうからぶつかります。
いつも、これではだめだとか、こう在りたいとかいう思考の声が背景に流れていると思います。
なので、わたしたちは、何もせずにただそのままでいるということが一瞬も無いし、できない。
少なくともわたしには、絶対、無理。
わたしたちは、呼吸をして、聴いて、見て、感じるということだけに在れません。
ただ、そう在ることに気づいているということが出来ない脳のクセになっている。
スマホが手に無いだけで、うろうろしちゃう人、多いのではないでしょうか。
だから、今の瞬間の呼吸し聴き見て感じて気づきながら在るという「裸の現実」と向き合えない。
目の前の出来事を言葉や概念でつかもうとしてしまう。
リアルにあるはずの、あるがままを常に修飾して行く。
いや、スマホがあれば、情報で脳をうめる。
なぜ、そうするのか?
そんなチョウ難度なことをしなくて済みますから。
「現実そのもの(起こっているそのままの現実)」は、思考によってはつかむことはできないものです。
つかむことが出来ないということが「まったく明らかなことだ」という認識に至っている人が、ほとんどいないと彼女はいいたいのです。
それは、驚くべきことだと。
「私は何のことを話しているのでしょうか?これ、です。まさにここ。たった今。」とジョーンは繰り返し呼びかける。
3.開かれている感覚と驚嘆の感覚
『今の瞬間に起こっているこの経験についての(何か、なぜかという)解釈はどんなものであれ疑うことができますが、あるということは疑えません。
今この瞬間の出来事をそのまま経験しているというそのこと、ここにいるということ、今あるということ、
そうなっているということ、これについては何かを信じる必要はありませんし、どうやっても否定できません。』
もし、この感覚をつかみ損ねているのだとしたら、わたしたちの何がいったいマズイというのでしょうか?
実際、わたしたちは何を疑えて、何は疑いようも無いことだと、考えたことがないのです。
みんなデカルト並みに考えてみないと、何がマズイ?
ある日、ジョーンは不器用で破壊的な自分にほとほと嫌気がしました。
なぜ?を繰り返した。
原因を問うとは、自分にとって絶対に疑えない地面とは何かを確認することでした。
『経験は、変わらず否定しようもなく現れ続けます。
今の瞬間のこの生き生きした性質に目覚めていると、そこには開かれている感覚と驚嘆の感覚があります。
まったくありふれたものごとに美を見出します。
すべては根本的に問題無いと感じます。
そうは見えないとしてもです。あるという気楽さを感じます。
(仮に)深く悲しんでいたり体の痛みを感じていたりしても、
そこには生き生きとした感覚、とどまることなく流れている感覚、無根拠性の感覚があります』
ああ、そうなのです。
わたしがはなに会ったとき、いっさい解釈はしていませんでした。
ただ、かのじょの在るがままをわたしは受け取った。
なんの解釈もしなかったわたしには、確かに、「開かれている感覚と驚嘆の感覚があり」ました。
わたしがめったに経験することの無い、喜びがありました。
小さな彼女は、そこにいるだけでワンダーでした。
小さな、まあるい存在にわたしは畏怖を覚えた。
自分の子を持つだけでは、この感覚はピンとこないかもしれません。
じぶんの子が子を持って、はじめて”わたし”が連続して流れている状態を確認した驚き、畏怖、神聖さもあったでしょう。
わたしは、それはてっきり、天使のはなに会って、はなから受け取ったものだとおもっていたのです。
けれど、ジョーンが言うとおりかもしれません。
はなというピュアな存在を介して、わたしは「生き生きとした感覚、とどまることなく流れている感覚、無根拠性の感覚」を呼び覚ましたでしょう。
孫とはじめて出会うという、まったくありふれたものごとにわたしが美を見出していた。
そして、すべては根本的に問題無いと感じました。
人生でも滅多に起こらないこの経験にびっくりしたのですが、
実は、思考を手なずければ問題という観点は去ると言っている。
思考=わたし、というフレームを超えると、美という根本にいつでも在れる、とジョーンはいっています。
日々のわたしたちは、きっと逆なのです。
「深く悲しんでいたり体の痛みを感じていたりしても、そこには生き生きとした感覚」があるとは、感じたく無いのです。
深く悲しんでいたり体の痛みを感じたら、その世界からすぐさま逃げたいのです。
そこに踏みとどまって、生き生きとした感覚を味わうよりも、緊急脱出しなくっちゃ。
たぶん、芸術家と呼ばれる人たちは、この「生き生きとした感覚」に魅入られているでしょう。
そして、ふつうは、お金に成る、有名になる。一人前になる、一角の人物になる。成れば、安心できるだろう。
安心と「生き生きとした感覚」は実は、同時に起こるとジョーンはいいたいのです。
4.わたしたちの苦しみの元
わたしには生き延びたいという願いや欲とともに、世界に対して対処して行けるんだろうかという恐れもある。
脳は思考を自動的に紡いでしまう。
その欲と恐れにドライブされて、この脳は、目の前の経験を一瞬にして色付けしてしまう。
記憶に基づいた解釈しか起こらないので、かなりつまらない。感動なんてないのです。
『今の瞬間のこの生き生きとした性質に無感覚でいるとき、そこには苦しみがあります』。
こんな風にズバリ表現した人を知りません。
なぜ人は苦しむのでしょうか?
今の瞬間のこの生き生きとした性質に無感覚でいるから、苦しむのだという。
じぶんで苦しみの根っこを見て行った時、わたしは、この言葉を否定できなかったのです。
でも、なぜ、そんなふうに断言できるんでしょう?
『私はここで、痛み(感覚そのもの)や苦痛を感じる状況(戦争、破産、災害・・)と、
痛みや苦痛を感じる状況についての思考、意見、ストーリーとを区別して述べています。
私がここで言っている苦しみというのは、基本的には、これ・ここ・今は十分ではない、
生は今あるとおりであってはいけない、
「私」はこのままではだめだ、「それ」はそのままではだめだ、
自分が求めているものはどこか別の場所や過去や未来、<ここ・今>ではないどこか、
あるいは別の時にある、、、という思考、意見、ストーリー、信念、観念のことです。』
目の前に起こっているリアルと観念(思考)とはまったく別物だからというのが、彼女の答えなのです。
『この何かが欠けているという観念の根っこに必ずあるのは、
「私」というのは、いつか滅んでしまう傷つき易い心身の内側に閉じ込められた状態で、
異質で恐ろしい外側の世界を見ながら、生き残るため、成功するため、
どこかにたどり着いて特別な人間になるために努力している個別の断片なのだという思考、意見、ストーリー、信念、観念です。
内側に閉じ込めらながら分離(孤立)しているというこの観点からは、つねに何かが欠けているように感じられます。』
こう言う権利が著者にあるのは、彼女自身がひどく苦しんだ生だったからです。麻薬も警察沙汰もグル巡りもさんざんした。
『私たちは、いつか完全なかたちで生きられる日が来ると想像しています。
いつか借金を完済したら、いつか車庫を片付けたら、いつか禁煙に成功したら、
いつかスペイン語を身に付けたら、いつかホームレスの人たちに食事を配るボランティアをしたら、
いつか仕事を見つけたら、いつか老後資金が十分に貯まったら、いつか引退したら、
いつか痩せることができたら、いつかジムにまた通って体を鍛えたら、いつか両親に償いをしたら、
いつかソウルメイトに出会って結婚したら、いつか子どもがひとり立ちしたら、
いつか次のリトリートに言ったら、いつか悟ることができたら、
そうすれば、未来のいつの日にか自分は完全なかたちで生き、まったく問題がなくなるだろう。
ほんとうの人生がはじまるんだ、と。』
『あるいはもしかしたら、本当の人生は過去にあったと考えているかもしれません。
離婚する前、失業する前、子どもたちが家を出る前、ガンにかかって車いす生活になる前。
でも、過去にあるいは未来に拘っているとしても、これ、たった今のこれは絶対に違うんだと思ってしまいます。
(今という)これは、どうにもならないものだと、そう私たちは考えます。』
私たちが想像上の問題や矛盾にはまり込んでしまうのは、考えたり概念化するときだという。
今とは違った状態にならなければならない「誰か」になってしまうのも、
概念に没頭して思考の作り出したストーリーの中に入り込んでいる時だけです。
だからこそ、注意が思考から離れて、聴き、見て、感じて、気づくというまったくの単純さに移ると、素晴らしい解放感がもたらされるわけです。
注意がそうやって思考から移るとき、まったく何でもないものとしてただここにあることの安心を感じるのです。
実際、あなたにも緊張が抜け、思考は動いていなくて、安心しているシーンが浮かぶのではないでしょうか。
目覚めるというのは、実はすごくシンプルなことなのだと彼女は言いいたいのです。
そんなたいしたことじゃないと。
人間の思考のクセというものを見抜いたかどうかという1点に尽きる。
「私」という人生のストーリーから、自分が考え信じているすべてのことから目を覚ますことだと。
今ここにあるものの単純さに目を覚ますということ。
それは、過去でも未来でもなく<ここ・今>でしか起こらないと。
だから、わたしたちにとって、今・ここという捉え方がすごく人生の分岐点になるわけです。
ただし、<ここ・今>はモノではないです。
その外側にはどんな場所もどんなものもない。
今ここを探し求めるのはばかげたことです。
よく思考を落とせといいますが、それはうまくないのです。
<ここ・今>で思考ということも起こっているのです。
だから、<ここ・今>自体を観念で否定してゆくことになる。
思考は良いも悪いもなく起こっているのなら、それをそのままに受け止めるればいい。
ああ、自分が心配しているんだなと受容する。
思考は落とすものではなく、じっと見られていると落ちるものです。
ジョーンは続けます。たぶん、もっとも大切な一文でしょう。
『苦しみは雷雨や曇った日に似ています。誰のものでもありません。何も意味していません。
苦しみは個人のものに見えますが、実際には天気と同じように誰のものでもなければ、誰かが生み出したものでもありません。』
こうして著者の第1章は終わります。
<ここ・今>。。
たった今の瞬間のこの、経験という生き生きとした性質と直接性を、わたしははなに見たのでした。
いっさいの修飾なしの、裸の経験だったと思います。
わたしははなに会って、つくづくわたしのこころが解放されて行く様を味わっていた。
P.S.
先月、3歳となったはながこの関西に来てくれました。
のぶは、おやじたちはどんなところに住んでいるのかを確認したかったのでしょう。
で、はなは、大きくなり、3歳児らしく歌い、話し、笑い、泣き、走った。
じっとしていない、はな。
世界に手を伸ばす、はな。
可愛いです。はな。
でも、「わたしは、思考を落としてその命と相対した」という状況はもう再現されなかった。
はな自身、もう意図をもって動き始めていました。
わたしは、はなという動く存在に連動し相互作用し、喜怒哀楽を共有しだしていました。
ジョーンの話は、それはそうなんだけど、むむむむむ・・。
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