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伝えたいから書いてる ― 大根と岸田奈美さんのこと
あなたも、書くことに迷いがあるかもしれない。こんなこと書きたかったんだろうか、みたいな。
スッキリしないってあるかと思います。
さいきん、読んでいて何も伝わって来ない記事がやけに目に付きます。書くために書いてるん?
今までは、そういう書き手なんだろう、でわたしは済ませていた。いや、じぶんの文もそんなのがあるぞっ、ごろごろ。
1.泥付きの大根を出しちゃう
エハラさんが、「大根はそのそのままじゃ、誰も食べてくれない」というようなことを言ってたという。
美味しく料理しないといけない、泥付きじゃ誰も食べれないよね、と。
ううーん、どうなんだろ?
自分が何に惹かれたのか、何を言いたいのかを捕まえるだけでもたいへんです。
おお、、これだっ、この大根だっ!これを料理したい!という段階が最初に来る。想いが起こる。
で、いそいそと料理に取り掛かる。うっかり洗うのをすっ飛ばす。
もちろん、あなたのままを知りたいわぁ・・、なんていう奇特な読み手はこの世にはいらっしゃらない。
やっぱり、泥を払い皮は剥いておいてほしいと読み手は言う。
あなたのままでは、誰も食べれない。ということを肝に銘じてる書き手ってあんまりいないかも。
みんなが食べやすいように整え、色どりも鮮やかに、出す順番も考えて・・・なんてすごく面倒くさい。
そんな面倒なことしてまで書くんだとすれば、伝えたいから書いてるといえる。
いや、伝えたいから書いてる、とは限らない。
いい大根、見つけたっー!! ホレボレ大根に見惚れるぅ。嬉しくって、誰かに大根を見て欲しいぃー。
わたしにはそんな記事が多い。
視座は自分自身に向いてるので、あまり読み手のことは考えていない。
わたしゃ、うっかり泥の付いたままで出しちゃったりする。
「書き手」―「場」―「読み手」という空間で、読み手は「場」に惹かれるでしょう。
「場」って、楽しそうだなぁとか、頑張ってるなぁとか、健気だなぁとかいう想いだと、わたし思う。
みんなは、あなたの興味ではなく、あなたの想いに関心を持つ。
また、いくら自分が感動したからって、かなり料理の腕がないと受取ってもらえない。
せめて泥くらいは、わたしも落とさなくっちゃ。
いやいや、もう一度読みたいと思うお話には、かならず情緒が流れている。
感動したぜっ!は、激し過ぎて情緒じゃない。
踏み込み過ぎていて、さあ、うまいからこれ食べて!という押しつけにもなる。
どんなお話でも俳句でも、情緒というfeelingが貫徹しているとまた読みたくなる。
その情緒は、左脳が壊し易い。
ああだ、こうだという理屈、書かねばという声は右脳の感性を破壊して行くのです。と、胸の想いが現わせなくなる。
情緒って、書き手の想いが深くあなたへと還流して行くものでしょう。ほろほろと。
2.不純な料理人
自分の書いたものが伝わっているか、という疑問は本人に起こりにくいのです。
わたしなんか、最近気にし出したばかりだし。
伝わっているかの検証自体も難しい。そもそも、伝わっているかの評価指標が無い。
なぜって、それは読み手の感ずるものだから。
書き手は寄せられたコメントで推測するしかない。フォロー数やイイネやスキはお付き合いもあるので、当てにならない。
伝わりにくいぞっなんて言ってくれる人もまずいない。
自分への閉じこもり具合も本人はなかなか気が付けない。評価指標も無い。
読む時と違って、書く時はそもそも内向し易い。
自分自身を俯瞰しないうちは、自分も解放されないという話がある。
他者は、書き手の内側のグダグダを知りたいわけじゃない。解放された料理がさっと食べたいでしょう。
たぶん、己に閉じこもった記事は読み手だけでなく、書いた本人もつまらないと思う。
きっと、つまらなければ伝わらない。
書くことの1番美味しいところは、胸がパァーっと解放されるということだとわたしは思う。
それが他者に伝わるかどうかは、既に書いている最中に分かる。
泣き笑いして自らが先に浄化されながら書いている時がある。ほろほろと。
書かねばが強い記事は、左脳ばかりがカラカラ回転する。
書く動機や目的は人によって違うでしょうが、文書の出来はその動機たちが左右する。
泥が付いてなければ伝わる?
いいえ、その大根、そもそも鼻につくぞってあるかもしれない。
不純な動機なら、それに相応しいものが織られる。
読み手の右脳は、書き手の動機を瞬間に嗅ぎ分けてしまうのです。
書き手は誠実か、テーマへの敬意と愛があるか、と。
どんなに良さげな大根でも、料理人の根性が見られてしまう。
なんだか伝わらないという時に、この動機も左右しているでしょう。
視野が己に閉じこもってる時、実は、自分自身にたいしても誠実になりにくいのです。
3.書く動機は『わかってもらう』こと
毎週、ご覧になってますか?
NHKのドラマ「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」が人気です。
書くことの原動力は何ですか?と聞かれ、原作者の岸田奈美さんは答えた。33歳ですかね。
https://bunshun.jp/articles/-/72909?page=1
「私は3歳くらいのころから口癖が『なみちゃんはね、なみちゃんはね』だったそうなんです。
しゃべりたいことなんてないときでも、ひたすら大人の気を惹こうとしてそう繰り返していたと。
自分の話を聞いてもらいたい、自分のことを伝えたいという欲求が、生まれついて強かったみたいです。
いまも私の原動力は『書く』ことじゃなくて、ただ『伝える』こと、『わかってもらう』ことにあります。
その手段として書きまくっているだけです。
自分のことがだれかに伝わり届くのであれば、私はいくらでも自分のことを晒すし、恥だってかきますよ。」
書く動機がわたしとぜんぜん違った。
わたし自身は、こんなに書けるんだとアピールしたいんだと思う。
あからさまに言うと、すごいねって褒めて欲しいエゴ強めな男だと思う。
根性、曲がってるっ。
でも、なぜそんなふうに思ってしまうのかはじぶんでは分かりません。
母に言わせると、わたしは3歳ぐらいで周囲に新聞読んで聞かせていたそうです。
字も読めないから、勝手なお話作ってたんだと思う。
皆の衆、さあ、聴け!そして、我を褒め称えよ!みたいな。
子守してくれてたばあちゃが行く診療所はわたしの晴れの舞台でした。気が付くと、演説ぶちたい派だった。
岸田奈美さんは、わたしを分かってという成分多めだという。褒めて欲しいわけじゃない。
うまかろうがヘタだろうが、まるごとの自分をガバッと受け取って欲しい。
そのためには、どんな努力もする。書きまくる。
で、彼女の書く文章には、数千、数万のポチッが押されてる。
彼女の書く文章はわたしの胸を打つ。
少なくとも、虚栄心にエネルギーを使わなくて済む彼女の方が断然、伝える情熱が純粋になる。
伝えたいことへの集中が可能となる。
ある種の動機は継続的な努力を可能にし、ある種の動機は常に書き手を散乱させてしまう。
動機を考えずに才能のせいにするのは、すごく不遜な気がする。
もちろん、彼女は関西人。
だから、自分の苦しみをネタにして他人を笑かしたいとも言っている。
自分の内にだけあると悲劇だけど、他人に晒すと「たいへんやな」とそれは喜劇になると知っている。
苦しむ時、自己を俯瞰するのに笑いは強力な手段となるわけです。
笑い飛ばしてもらって一向に構わないという。
守る虚栄心が薄い分、より強く遠くまで彼女の想いが伝わるんだろう。
でも、わたしは「褒めて欲しい一派」だもの。
やっぱり、笑われるのはちょっと想定していない。嫌だっ。
こういうわたしのような人の文章は、伝わるどころか撃沈し易い。
4.彼女の書くことの根っこにある想い
「私にとって弟の存在が、伝えたい欲求をさらに加速させているようなんです。
ウチの弟はダウン症で、いまのところはまあ何とかうまくやっているけれど、いつ人からだまされるかもしれないし、傷つけられることだってあるかもしれない。
私や家族がそばにいないとき、だれが弟の味方をしてくれるのか?と不安です。
いやもちろん、どうにかするとは思うんですよ。
弟は私より性格がよくて明るくて人に好かれるので、本当はこっちが心配する必要もない。だけどやっぱりたまに心配になる。」
中学で父は急死し、高校で母は半身不随に。弟はダウン症だ。おばあちゃんは認知症が絶好調。
しかも、彼女自身は、人と協業して働くにはすごく不器用な人間。
で、この4年間、noteに必死に書いてきたマガジンの収入で家族はなんとか生き延びた。
わたしを認めてなんていうことに浸ってる場合じゃなかった。
やがて、母も逝く。ああ、、自分がいなくなったら、この健気な弟をだれが守ってやれるというのかっ。
伝えたいという想い、稼がなくちゃというプレッシャー。
彼女の逆境と天性の集中力が、今は岸田家を守護している。
どうしたら、伝わるかを切実に考えてる。
「じゃあどうしたらいいか。
弟のような人間に対して、味方になってくれる人がたくさんいる社会になってくれたらいちばんいい。
そういう世の中が、だれにとってもいいかどうかはわかりませんけど、
少なくとも私と私の家族にとってはそれがいい。
自分のことしか考えてなくて申し訳ないですが、とにかく岸田家の味方を増やすことをこれからも考えていきたい。
そのために、私や家族のことをもっと知ってほしい、伝えたいという気持ちが強くなるわけです。
そうなると、書いたものを発表する場所も、読んでくれた人の反応がすぐ返ってきて、『伝わった』という実感を得やすい、noteやSNSが中心になっていくんですよね」
家族の者を大切に思うひとです。
彼女は、弟についても書きまくっている。赤べこの話なんかで、その想いがわかります。
彼女は、嬉しい、悲しいとか書いてない。
母が赤べこのようにぺこぺこしたんだと描写する。
それをわたしが読んで脳内に再生する。
感情を書かない分、かえって彼女の想いが再生される。。
伝わってくれ!という想いとは抽象的なものじゃない。具体的な人を想定している。
万人向けの大根料理なんてないのです。
岸田さんは、あなたを喜ばせたいのだ。
P.S.
わたしは、さいきん、伝わってるのかがやけに気になりだした。
たしかに自分のままで「はいどうぞ」というのは、泥付きの大根をそのまま出してるようで失礼だ。
でも、人には段階というものがある。
ひとは、ステップ踏みながら、だんだんと気づいて行く道を歩む。
それは仕方ないのです。
ああ、でも、言い訳はできない。
今まさにこれを読むあなたに、伝わるかがいつも問われている。
どうぞ、あなたに届きますように。ぺこっ。