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書くこと百景


昨日から、こころがザワザワします。苛立つようだし、なにかへの不信もある。

じぶんに向けて書いてじぶんがトーンダウンしたというだけの話です。済みませんほろほろ。



書けば自己を世界に現わすことができる。

外在化してはじめて、「わたし」というのを具体的な形で確認できるようになる。

かのじょの何を面白がっていたのか、いったい何が不満なのかが文字に定着される。

ようやく、わたしは、じぶんを見て触れることができる。

だから、わたしは書こうとするんだと思う。


でも、「こうあるべきだ」とか「すべきだ」があると、書いたものがぜんぜんつまらない。

こころの中の想いが思考で隠される。

と、硬い文章になるのですぐにじぶんでも分かります。

いくらでも「べきだ」は書けるけれど、伸びやかさ、広がり、軽さを感じれません。

わくわくしない。


思考では、こころを解放してはくれない。

わたしは、書いて解放されたいのだと思う。

胸にあることを書けるかということになる。

書いてつまらない文章は、驚きも学びも喜びもない。

善さげな話になっていても、ハートが誰にも伝わらない。

可視化したいのは、想いというわたしエネルギーだ。


想いが満ちて来るまで書くのは待った方がいいのだ。

でも、時々、なんだか焦ってる。書こうとするじぶんがいる。

受け止めて欲しいんだろう。

書けばあなたに見てもらえる。

お付き合いで「イイネ」や「スキ」がもらえる。

どんなに形式的だと言われようと、確かに他者がわたしに触れたという証がもらえる。

わたしは、独りぼっちじゃないと確認できる。


でも、そんなふうに読み手に依存すると、みんなは読んでくれなくなる。

あれ?読み手の反応が少なくなって来たのかな?という時、

自分が人に助けてもらいたがってることを認めるタイミングだろう。

いいのです。弱っちくても、不完全でも、孤独でも。

でも、偽りやカモフラージュはいけない。

自分から自分を隠してしまう。

書いて自己を可視化すると言っても、そこは、「べきだ」の国への入り口でもある。

意外なことに、書くことで助けてくださいと言えることもある。


素直な文章を書けているかは、大事なことだ。

でも、わたしには素直に胸を開けない時がある。

なぜ?

怒り、苛立ち、不安、恐れが胸を覆っている。

それらは思考では取り払えないから、素直な文に触れて見る。

星の王子様でも、宮沢賢治でも、黒柳徹子でも、ほわっとするのならなんでもいい。

たぶん、小さな子に相手してもらうのが一番素直になれる。

犬や猫の人もいるし、登って行って山に相手してもらう人もいる。

わたしの今日は、ムーミンに触れている。


素直を外に外在化できた先輩たちや存在に助けてもらう。

助けてもらって、こころホカホカとしないうちに書いてはいけないでしょう。

書いても自分が救われないし、誰も励ませない。

自分が励まして欲しいのなら、他者もそうなんだろう。

書きたいのにうまく書けない時、それは自分自身が助けを求めている。

やっぱり、助けてくださる先輩を訪ねるに限るんだ。



北極へ着くと北を失ってしまうという。

北が、満たされてしまう。

いくら腹が減ったといっても、食事をしてしまうと当分、食べれなくなる。

無限にかつどんやラーメンはたべれない。

1つ文章を書くと、次が書けない。

想いが涌いてくるから書きたいのだ。

でも、書くとその熱は満たされてしまう。

やっぱり、うんとお腹が減って来るのを待たないといけない。

わたしの場合、3日か4日も我慢すると突然、考えがまとまって書き始める。

書くという行為には、待つもペアになっている。


ああ、そうだ。

わたしは昨日から、きっと来てくれるという地面をどこかに失ってた。

百景どころか、2景にしかなってないけど、

どうぞ、わたしに喜びの想いがふたたび湧いて来てくれますように。

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