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ありがたやありがたや(2)


1.あなたの読む音がしてくる


わたしが前に書いたものをあなたが読んで行く。

ポツリポツリと読む音がする。

そうすると、わたしは「申し訳ないなぁ~」って思う。

最近は1週間に1本ぐらいしかUpできないし、そんな前のものを読んで頂けるほどの自信作でもない。

だいいち、じぶんでも何書いたのかを忘れてる。

たいがいどの記事も長い。書いてる中になんでも突っ込みたがる。

じぶんで読んでも何が言いたいのか、分かりにくい。

でも、あなたがポツリポツリと読んで行く音がする。

いったい、何がよくて読んでくれるんだろう。

そりゃあ、わたし、渾身の力込めて書いているんだけど、だいたいほとんどひとには読まれない。

もちろん、じぶんでも上等な文章でないとは薄々わかっている。

でも、あなたがポツリポツリと読んで行く。。


今夜はそちらでは雨でも降っているんだろうか、と思う。

あなたは行く先も知れぬ不安におびえているんだろうか。

一人ぼっちでどうしようも無く居た堪れないんだろうか。

あなたのポツリポツリと読む音がしてきて、

あなたを励ますにじゅうぶんな力量の無かったことをとても申し訳なく思う。

優しい言葉も、気休めも掛けてあげれないものを書いているじぶんが恨めしい。

そうだ、さいきん仕入れたマントラの話をあなたに贈ろうと思い付いた。

そうだ、そうだ、それがあったじゃないか。

いや、もちろん、あなたの力になるかはぜんぜん分からない。

でも、わたしが救われている。

聞いてくださいます?ほろほろ。



2.ぜんぜん謎めいたマントラ


わたしは、バカにされてはならないと思って来た。

一人前の、いや抜きんでた立派な人にならないといけないとずっと思ってきました。

そういう競う男が唱えるマントラは、「人間はバカなものだ」というものでしょう。

人を見下すマントラを唱えて、おのれを正当化しようとするのです。

でも、先日NLPにからめて書いたように、「ひとはみな、おもしろいものだ」というマントラもあるというのです。


これは、ひとと接するシーンで、怖気づいたり、バカにしたりしてじぶんが逃げるということが起こりません。

このマントラは、ひとたちの下に横たわってる”おもしろさ”をじぶんに探させようとさせます。

わたしが行為をするにあたって、”勇気”を差し出してくれます。

じぶんを正当化も防御もしないのです。

だから、初めて会うひとでもわたしはこころ開いて、やあやあと近ずくことができます。

ひとたちの興味や関心や願いがどこにあるのか、わたしはかれらに何をしてあげれるのかという視座に突入します。

警戒して「人間はバカなものだ」という構えとは決定的に違う展開、違う結果がもたらされます。

相手がどんな年寄りでも、どんな男たちでも、どんな子どもでもこれほど最強のマントラはないでしょう。


たしかに、つい自己防御しそうになるたびにわたしは、この「ひとはみな、おもしろいものだ」というマントラを唱えています。

さいきんは、バカみたいに唱えてる。

そうすると、わたしのこころが開かれてひとたちと交わっている。

でも、効果が絶大なんだけど、やっぱり引っかかるわけです。

「ひとはみな、おもしろいものだ」と言い切れるのか?

この「おもしろい」という意味は、ふつうわたしたちが使う「おもしろい」とはずいぶん違うものなんです。


3.この世における面白いとは


ここまで読んでくださったのなら、あなたもきっと「おもしろく無い人間」の顔を思い浮かべていると思う。

意地悪なお局さま、傲慢な男、ずるいヤツ、陰湿な年寄り。

ひがみ、ねたみ、怒り、不安をまき散らしている人間っていっぱいいるじゃないかって。

そうそう。わたしだって、そう思う。

でも、「ひとはみな、おもしろいものだ」というマントラはどうも正しいのです。

つまり、視座が、前提が違うのです。

ふだんわたしは、じぶんを良く守ってくれる者、理解してくれる者、笑わしてくれる者を「正」とします。

そうしてくれない者を「邪」とする。

でも、「おもしろい」というのは、わたしの好悪という視点ではないのです。


きっと、いろんな人間のサガを見せてくれる者たちを鏡にしてじぶんを見返しているのです。

わたしの中にぜんぜん僻みも妬みも意地悪さも無かったのなら、そういう者たちに出会ってもたいして憤慨はしないのです。

彼らは、わたしの中に在るそんなネガティブな、卑しい気持ちを鏡に映し出す。

カガミを通じてわたしはじぶんをみているのですが、

それは、自他の中にある人間の切なさ、滑稽さ、ずるさ、哀れさなのです。

じゃあ、なぜ「ひとはみな、おもしろいものだ」と言い切れるのかというと、

それは、わたしの中、あなたの中にあるそういったネガティブをそのひとがどうクリアしようとしているのかということでしょう。

ある者は、その卑しさから出れずに葛藤し続けている。

ある者は、健気にもそのネガティブを受け入れた。

ある者は、健気にも自分のサガにチャレンジし続ける。

そういった本来の願いと、現状との間においてどんな努力をしているのか、

諦めているのか、凛々しくあろうとするのかを見せている。

人間という悲しいほどに不完全な存在であることにたいする、様々な相、面を見せてくれている。

だから、この「ひとはみな、おもしろいものだ」というマントラは、

けっして完全ではないわたしたちという存在をみんなが演じてみせている、その壮大な劇場なんだといっていると思う。



4.わたしがおもしろい


みんなをカガミにして、わたしはじぶんを見ています。

そして、喜怒哀楽しながら、じぶんを知って行く。

じぶんは、なぜかへんな脚本を演じないといけない役者なんだけれども、

演じながら、そうかそうか、そういう役者なんだなと理解して行く。

分かれば、葛藤しなくなります。

腹が減れば食べたくなるサガなんだったら、腹が減ることは否定しなくなる。

そんなところで葛藤しなくなるわけです。

立派で、人気があって、好かれるというのが難しいのなら、そこで改善なんてしても無駄なんですね。

それを鏡たちは教えている。

そういう現状でできること、やらねばならないことに注力してゆくことになります。

これって、”面白い”ということなんです。

その壮大な劇場にわたしは住んでいて、それに気が付く言葉が、「ひとはみな、おもしろいものだ」なのだと思う。


もちろん、ひとはみな面白くは無いのです。

面白い者から、ぜんぜん面白く無い者まで無限のスペクトラムが描かれる。

でも、わたしたち人間が背負う悲しさを深くみんなはわたしに見せる。

ああ、それを「面白い」という以外に言葉は無いでしょう。。


あなたに話がうまく出来ているのか自信はないのですが、

カガミに映った他人という自分をみながら、みんなの葛藤度合いを見ているマントラの話をしたかった。

今夜もあなたに雨がしとしと降っているのかもしれません。


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