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ナルシストでも文章を書くには ― 和歌の薦めではなくて


先日、ある歌人の話を書いたのです。

その歌人は「ナルシシズム」という批判をされることも多かったのだそうです。

わたしの文章も、自己陶酔フレーバー感、満載かと思う。

わたし自身も無くしたいとほんとは思ってる。

他者のそういう文章を読む時、わたし自身でさえ抵抗を感じますもの。

でも、切ない、悲しい、嬉しいというこの感情自体がたしかにこの胸にある。

かっ、かぁ、書きたいーっ!

もちろん、感情を第3者として客観的に書くことも出来ますが、わたしのような種族はどこかそれでは納得しないのです。

もちろん、あなたに読んでもらえねばこの世に出した価値はないのですが、

それよりも何よりも先に、わたしは自己のためにじぶんを表現したいっ。と感じる。

いいや、だめだ、自己を落として客観的に書けと世間は言う。

なぜなら、ナルシストからは自己満足、自分勝手という匂いがしてしまうからと。(読み手はどん引き)

いいや、世の常識に従ってはいけないっ!という声もする。

この手からこぼれ落としてはいけない何かがあるんじゃない?

いちがいに、主観的、自己陶酔という「悪者」印のラベルを貼ることは片手落ちかもしれないと、ナルシストの直感が言う。

ああ、いったい、感情を直接書きたいわたしを何が救ってくれるというんでしょう?



歌人は歌いました。

 「この向きにて初(うい)におかれしみどり児の日もかくのごと子は物言はざりし」

(長女ひとみ急逝)という詞書き(ことばがき)が添えられました。

新生児のとき、同じような向きに寝ていたわが子を思い出してる。その時も、子は何も言わなかった。

そして逝った娘もその時と同じように、まったく同じように動かないのねと詠います。(娘は東大文学部の学生でした。自殺します)

そして娘の葬儀をこう詠いました。

 「わが胎(たい)にはぐくみし日の組織などこの骨片には残らざるべし」

ついさっきまで息をしていた肉体が焼かれ消失してしまうと、娘は残った骨とはもうまったく関係を持たないのだと気づき驚くのです。


この歌人(五島美代子)に対して、ある批評家は書いていました。

「この『母の歌集』に詠まれたことを散文で表現したならば、読む者は辟易(へきえき)し、嫌悪感を感ずるかもしれない。

私は和歌という伝統のありがたさを始めてしみじみ思った。」

和歌の調べがあるからこそ自己陶酔の嘆きが珠玉のものになった、と批評家は言ってた。

おお、、、、。

この歌人は、古典和歌の優しい調べを助けとして、子への思いのたけを死ぬまで典雅にせつせつと訴えて生きたのでした。


たとえば、わたしたちが喜怒哀楽するその表面の下には、宗教的といっていいような愛情や祈りがあったりします。

救いを求めていたりするかもしれない。

感情の直置き(じかおき)が嫌悪されるのは、ただ嬉しい、悲しいではこれが伝わらないからです。

もちろん、ナルシストの本人でさえ、「嬉しい」、「悲しい」だけではマズイと分かってる。

じゃあ、言葉ではうまく言い表せないその情感をどう伝えるのか?

そこを、「自己を離し、第3者的に表現する」のが今の散文の”常識”かと思います。

なぜ?

かなり情報を落とすと、読み手が溝を埋め始めるから。

ああ、辛かったんだろうなと読み手が自分の体験を勝手に重ねて来るのです。

読み手からすれば、自由度がある文だから、書き手が押し着せて来る圧迫感がない。

良い文章ほど、いく通りにも読めてしまうということです。

「ああ、悲しかった」と書かれては、悲しい以外が思いつかないということでもあります。


ずっと現在にまで残った和歌のような表現形式には、そういった掬い上げることが難しいものを伝達する力が備わっているのかもしれません。

和歌はリズムを要求します。

そのリズムが書き手を救い、読み手を励ますでしょう。

なぜ、村上春樹が書く際のリズムをとても気にしていたのかをやっとわたしは納得しました。

「リズミカルである方が良い」ではなくて、「リズムがあなたを救うのだ」と彼は言っていたんですね。

「もしその文章にリズムがあれば、人はそれを読み続けるでしょう。

でも、もしリズムがなければ、そうはいかないでしょう。

二、三ページ読んだところで飽きてしまいますよ。

リズムというのはすごく大切なのです。」

(村上春樹 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』)

散文でも、和歌並みにとはいわないまでも、リズムで自己を表現して行けると言っていると思います。

それは、メロディが鳴るあいだ、ずっと踊ることと同じで、人はつい読むのです。

どうしてとか、何故踊るかを考えたら、もう踊りはとまってしまうというようなことも村上さん、言ってます。

読む喜びが、謡う喜びが、ダンスと同じ根っこにつながってるんだとしたら、踊る読み手に思考をはさませてはいけないんだといっている。

肌と肌、手と手を繋いで情熱的なサンバのリズムを踊る時、からだとリズムがふたりを接続してくれる。

けど、すこしでも足が止まってしまうと、もう繋がりは切れてしまう。。


文章を書いてあなたがそれを読んで初めて、わたしは自己の表出が完了します。

書いただけでは、自己を世界に現わすというダンスは完結しない。

あなたが読み感じてくれるまで、わたしはくすぶるでしょう。

だから、先ずおのれの満足が先だといったわたしは、間違っていたのです。

でも、それはしかし、正しくもあって、わたしの中に存在するモノでなければ、あなたとは繋がれないのですから。


和歌、和歌かあぁ・・・

もう手遅れな、古典オンチがよろよろとさ迷うのだけれど、

救い手は意外なところにいて、しかも彼はそればかりをずーっと繰り返し忠告して来たのでした。

村上春樹さんの文章は、言葉の切れ目ごとの音節の数が、ずっと一定なのです。

ほほほぉ・・・・

わたしも、和歌並みに、まずは短い文を並べてみようっ!とナルシストは思ったんです。

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