受容、とかいう。あるがままに、とかいう。
そうだそうだ、その通りだっ!
という、有り難き言葉ってぜんぜん身に付かないっ。
ぜんぜんどうでもいいようなことしか覚えていないよろよろ。
1.わたしが絶対に考えつけなかったこと
「あなたの中に本当の弱さを見つけて、それに負けてしまいなさい。
そこに、あなたの才能を生かす道があります。」
ええ”-、、。
そんなこと考えたこともなかった!
なぜなら、それはわたしの「絶対してはいけない」リストの筆頭に書かれていたから。
いたんですよ、こう全力で言ったお方が。
モーシェ・フェルデンクライス。知る人ぞ知る。
彼はあるメソッドの創始者です。もう20年ほど、わたしは彼を追っかけてる。不思議な身体技法・・。
気まぐれにいったんじゃないのです。こう補足した。
「ほとんどの人々は自分の弱点を克服するか、
すっかり覆い隠そうと力を尽くすことに人生を費やしてしまいます。
自らの弱点を受け入れることに力を尽くして、
自身を分裂させない人、そんな人は非常にまれです。
でも、どんな世代にもそのような人は少しはいます。そして彼らはその世代を導くのです。」
ああ、、わたしは弱点=有ってはあならぬこと、だった。
それこそが、キミを分裂させていたんだと言うのです。
くらっ。大袈裟に言えば、驚愕した。
でも、ほんとかなぁ・・・。
ゴッホもピカソもアインシュタインも、みんなそうなん??
いや、そんな気もしてきたぞっ。
かれらは、ことごとく自分の「欠け」を意識していたのかもしれない。
まじめにサラリーマンを定年まで勤める、きちんと子を育てる、
料理を作り、部屋の片づけし、友人を励ます・・。
どれも普通にできるとウワサされていることだけど、自分は出来ないんだと全力で受け入れた・・。
「負ける」という表現は、「その出来なさ加減を受け入れる」こと以上の先にいるでしょう。
負けろ!
負けてしまえ!
負けることに全力尽くせ。。
欠けを受け入れてまでも自身を分裂させたくなかったからでしょう。
分裂してしまったなら、もうおのれが無くなってしまう。
いや、狂ってしまいそうだったから?
奈落の底に落ちて行く恐怖があったの?
辛さを抱えた者は、自己の分裂はぜひ避けたいという必死さを持つの?
1つだけ、確かなことがある。
もし「本当の弱さを見つけて、それにちゃんと負けてしまおう」と腹くくったなら、その言葉はこの身に定着しそうだっ。
この言葉、忘れられない。
負けてしまおう、負けてしまおう、負けてしまおうー!!
良い人に成りましょう、あるがままですぉーとかいうより、
「負けろ!、負けろ!それと暮らすんだ!」とじぶんにいう方がだんぜん強いメッセージだ。
そして、なぜかずっと無理に着てたヨロイをようやく脱げる、という感覚がある。
わたしには、救われた感がある言葉だった。
2.なぜ弱さに負けた方がいいの?
ええ、それは事実だからです。自己に偽りがないのです。だから解放されるのですほろほろ。
ずっと暮らして来たかのじょが精神的に強いのも、「弱い者だから」かもしれない。
自分の出来なさ、弱さ、ずるさをいつも確認して来たひと。
「ああ、わたしズルイの」、「わたし、ヘタなの」。
言い訳というより、事実を自分に言い聞かせて来ました。
かのじょは己のリアルをつねに身に言い聞かせている。
以前にも書きましたが、出来ない自分=ダメな自分、じゃないのです。
算数で指足りなくとも、目が勝手に動いて本が読めなくとも、試験で1回も時間内に終わったことがなくとも。
かのじょの内界では、「出来ない」は「事実」でしかないと本人言います。
出来ない自分=ダメな自分、じゃないわと。
どんなに情けなく、悔しくても、この公式を捨てることはありませんでした。
もし、「出来ない自分=ダメな自分だ」としてしまうとどうなるんでしょ?
この世の発達障害者ぜんいんが生きていてはいけない、無価値物になってしまうのです。
そんなことないわ、とかのじょは直感するわけです。
劣っているから、居てはいけないなんて無い!って。
だから、スペクトラムの末端のどこかに属するであろうおのれは、全力掛けて、意地でも事実扱いを貫徹する。
かのじょに出来ることなんてほとんど無いのだけれど、
その身に刻印された定めを否定してしまっては、みんなにあい済まない・・みたいな感じでしょうか。
きっと、かのじょとは発達障害が流れる河の堤なのです。
その堤に、うっかり自分が弱気になってひと穴でも開けてしまったら、堤は崩壊してしまう。。
どんなに悔しく辛くても笑っているのは、そんな何か、プライド掛けて背負っているからか。
そういうリアリティの中を、じゃあ、じぶんはどう処するのか、どんな選択肢があるのかをずっと考え続けている。
数日、数か月、場合によっては何年も考えています。
評価や判断をするより先に、事実を何度もなんども確認しています。
事実を受け入れた者しか、適正な対処なり選択はできないのだからと。
そして、やがて、事実を受け入れ終わると、「わたし、自分が救われるの」という。
いやぁ。。でもねぇ、、競え、負けるな!という文化にどっぷり浸かってたわたしです。
それにわたしは、苦しむ仲間を背負う必要もない、ただの自己中だし。。
かのじょの生き様は、素敵ではあるけれど、この身に反映できかねるのです。
で、そこにフェルデンクライスの表現が現れた。
「弱さを見つけて、それに負けてしまえ」と。
この資本主義の文化に真っ向から挑んでいる。見上げた根性だっ。
外見気にして、良い所ばかり見せようと虚勢を張るのがふつうでしょう。
でも、内に居る”弱い子”を隠し続けるので、多大なエネルギーを漏れさせてしまう。
嫌われはしないか、好かれているのか、友だちなのかが、優先する。
中の出来ない子は隠し、お化粧に精を出す・・みたいな。
たしかに、それではすべてのパワーは発揮できない。
いや、弱さまで包含しないと、自身がばらばらに分裂してしまう。
いつも、不安定にこころが揺れ続ける。
なので、願いを達成するということが叶わない。
だめだから、力が無いから到達できないというより、自分で力を1/10、」1/100に希釈してしまうのです。
欠けた子を認めないばかりに、自己が散乱し、混乱し続ける。
これって、かなり辛いし、消耗する。
もし、あなたにも消耗し易いということがあるのなら、彼の言葉は転機をもたらすかもしれません。
そこまでして、外見を整えないといけないの?と。
いったい、誰の為の生なの?だれのために生きているの?という問いです。
出来る範囲で精いっぱい生きましょうよ、
他者はその欠けを笑い非難するんだけど、それはその人に任せましょうって。
わたしたちは、わたしたちの出来る生を歩くんですというのですほろほろ。
P.S.
こんなことも言ってます。
「健康な人とは、本人も言葉に表さない夢を十分に生きている人です。」
「あなたの夢はなんですか?」ということなんですが、以下が解説してくれていたので引用させていただきます。
https://karadanatural.net/the-word-by-moshe36/
彼は自身のレッスンに来た人に「どうなりたいですか?」と聞いた。
その答えによって、その人へのアプローチが見えるからです。
もちろん、生徒本人が言うことが、本当に感じているものとは乖離している場合がある。
たとえば「歌手になりたい」という。
それは、「注目されることで自分の価値を証明したい」に置き換えられるかも知れない。
その場合は、歌いやすくするために口や喉の使い方を教えるより、
「無価値な自分である」という先入観を取り去り、
感情と深く関連している胸全体や呼吸の動きをレッスンする方が良いわけです。
「・・したい」との言葉は「・・が好きだ」と言うより、
「・・が必要だ」「・・が欠けている」「・・がこわい」と置き換えられる可能性がたぶんにある。
実はそういった言葉と心の微妙な齟齬に、問題解決の糸口がある時が多いというのです。
そして、そのような強制的な衝動が心身ともに解けていく時、自然と本当の願いや欲求が出てくる。
それを彼は「本人も言葉に表さない夢」と言い、全ての人の人生にどこかへ向かう方向性があると述べたのです。
健康な人の人生には夢があり、方向性があるというのです。
今日はさつきの、晴天ですほろほろ。