こころのベンピ
不思議なことに、他人のことを書こうとすると、書けなくなります。
もう数日、そんなネタが3つほど、PC上のデスクトップに死屍累々(ししるいるい)しています。
どれもがんばって書き直すのですが、どれも行き詰まっている。
テーマは違うのに、同じような顔をして横たわっています。
たとえば、SNSを書き始めた人の記事を読んで、ああ、この人もきっとしばらくすると消えてしまう、と感じた。
その方には素晴らしい感性がある。
でもやがて、書くことに意味が見いだせなくなったり、応援が少ないままだったりするんじゃないだろうかと思う。半年もしないうちに退会しちゃうと。
何度も辞めようとしてきたじぶんだから、何かを言ってあげたいと書き始めます。
でも、だんだんと手が鈍くなり、数日もんもんしたまま、続きが書けないのです。
わたしは、書くのを職業にしていませんから、書けなくとも何も困らないはずです。
けど、書かないのと書けないのとは、大違い。
わたしは、じぶんを発信しないと、モヤモヤとこころのベンピ感に苦しみ始めるのです。人のことを心配(お節介)していたじぶんが、書けなくなる。
ああ、、すっきり書きたいっ!
何だかおかしいぞとようやく気が付きます。
断続的ですが、十数年書き続けて来て、ブログは毎日書くことに意味はないと思っています。
書かなくともいい。
毎朝ヨガしなくてもいいのです。
やっぱりこのような日記や記事は、わたしのこころの健康のためにあります。
思考に偏りがちなわたしは、頻繁にじぶんのこころの隅々に気を配ることで、感性とのバランスを取っているのでしょう。
書き手であるわたしがリアルに感じたことじゃないと、こころ全体が付いて行きません。
それに他人のことを書くのは、面白くないのです。
思考ばかりが速足をそそのかすし、じぶん自身に対する発見や気づきが無いからです。
他者をあれこれ言うのは、その人を勝手に解釈しているだけです。
無責任なので、何でも何とでも言えてしまう。
そんな記事を、わたし自身のこころが嫌がるようです。
書き続けられないのにはワケがあるとすれば、ベンピ気味になって当然です。
わたしの思考は、容赦なく自他を裁きます。
でも、善きこころも、悪しきこころも、みなわたし自身です。
わたしは、そのこころにいつも付き添っていたいです。
他者への想いの前に、わたしはわたし自身を確認しておきたい。
そうして、もし、万一、奇跡的に、他者へ手を差し伸べられたのならそれは望外な喜びです。
それは想定外のことなのですから、その時わたしのこころは高く喜びます。
それは、結果でしかないのですから期待するものではないのです。
わたしに出来ることは、ベンピ気味にならないように、せっせとじぶんと向合うことしかないのです。
いや、じぶんと向き合うなんて、簡単ではありません。
毎朝、かのじょのヨーグルトを分けてもらってます。
他者に助けてもらわねばならない、我が身です。
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