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うちの息子はかわいい、だけで終わらせちゃったら



先の正月、関西まで来てくれた息子に聞いたことがありました。SNSやブログってやるの?

かれは、放送作家をしている。

うちの息子、かわいくないです。

「僕はああいうのは、しない。」

それだけ。

父親がずっとハマっているのを知っているのに、ケンもほろほろ。

アマチュアが傷をなめ合ってるように見えるのでしょう。

確かに、ただの気休め、慰み、みたいな所がある。

でもねぇ、じぶんを表現してみたいし、居場所も欲しいなぁ・・・。

にんげんの基本的な欲求のような気がするんだけれども。


真面目な市民としてわたし、せっせと書くわけです。

で、時々何を書こうかなって悩む。

ただの慰みにしては、かなり真剣に悩む。

もう、アカウント消して地の果てまで逃げようかとまで・・。大袈裟か。

ネタが無い、浮かばないとわたしは思うのだけれど、ほんとは心が準備できていない。

書かねばならないとかいう義務感や、書いて繋がりたいという欲が先に走ってる。

後ろ振り向きざまに、欲はわたしのこころに強いるわけです。

無理に書かせようとすると、その窮屈さにこころは拒否します。


自然なのは、「これを書きたい!」という感覚でしょう。

それが湧きあがって来てくれるまで待つしかない。

その熟成期間って、すごく大事に成る。

それは、無駄ではない。必要経費、物書きの義務、この世の掟、、みたいなもの。

というか、待つしかない。


最初はワインなんかどう作ったらいいかも分からなかったのです。

どんどん、作ってみる。

でも、毎日書くというシーズンを経たら、今度はこの熟成ということを試みるでしょう。

熟成しないと、みんなあまり飲んでくれません。

どう過ごすかというテーマが浮上する。


で、めでたく、「書きたい!」という想いがやって来たとして、

何がおもしろかったのか、なぜそんなに感動したのかといった問いが大事になってくる。

わたしも、このとてもシンプルな問いを頼りに深く掘って行く。。


たしかに、noteを見ているとおもしろい文章にたくさん出会うし、noteの課金制度で「売れている記事」もある。

でも、さとゆみさんのように出版社から原稿料をもらって書いているエッセイストは、日本でも数えるほどしかいないんだそうです。

ブログと、お金がもらえるエッセイは何が違うのでしょうかと問われ、さとゆみさんはこう言った。


「それについては、私もずっと考えていて。

現段階の私は、文章に新しい発見があるかどうかと、

書いた文章が社会や読者と接点があるかの二つは、すごく意識して書いています。

テーマはなんでもいいと思います。

子どもの成長日記でも、祖母の介護記録でも。

ただ、うちの息子はかわいいだけで終わらせちゃったら、SNSの域を超えられないのだと思います。」


2つあるといってる。

1つは、新たな気づきの提供だと。

記事も発見がある記事はよく読まれるんだけど、さとゆみさん、できれば発見は1回より2回あるほうがいいと言う。


「まずエッセイを書く前にこれについて書こうというひらめきがあるので、それが1回目。

2回目は、書きながら気づきを得ることが多い。

一つの記事につき2回発見があると商業文章になっていると思います。」


ううーん。。

単純に「2回」あればOKなんていう話ではないんでしょう。

が、すくなくとも彼女はうんうんと考え続けていた。

つまり、書くとは、その何十倍も考えるという行為なわけです。

考えて深く掘らないと、ほんとに自分がキャッチしたことがクリアにならない。

考えて行かないと表層の下にあるリアルには迫れない。

自分が決めつけていたこと、避けていたことに至れない。

そうやって、書き手自身も”発見”するから、書くことが面白いと思う。

面白いと思わないのなら、書き手は苦行で続けられないのです。

そして、リアルであれば、他者は真剣に読む。


2つ目の「書いた文章が社会や読者と接点があるか」ですが、これはもうその人の見方。

彼方のアンドロメダの遥か上空を滑空する巨大トンボの話を書きたいのか、

ガザで理不尽に死んで行く子どもたちを書きたいのか。

いずれにしろ、自分のこころ振るえたことでないと他者には伝播しない。

接点を探り、どのような形でお届けするか・・。

彼女も様々に考えていました。


さとゆみさんはプロではあるけれど、すごく”まっとう”なのです。

まっとうなことをその通りに実行できるかが、アマとプロを分けていた。

「SNSの域を超え」たと本人が”分かる”ということは、実はかなり悲劇なことかもしれません。

もう戻れないのですから。

安易に書き散らすことも、垂れ流すことも、叫ぶことも、もう出来ない。

書いて仕事に出来たらとわたしもさんざん思ったのですが、仕事は傍(はた)を喜ばす職なのです。

自分の楽しみのためにするものではない。

プロはそれをせねべならない。

アマは、それをしても良いし、しなくとも良い。

だから、ネタもアマならアマにしか書けないことってあるでしょう。

でも、アマだからと力抜いた文を書いていいとも思えない。

わたしもときどき、「うちの息子はかわいくない」だけで終わらせちゃうのですが。


プロに成ることが目的じゃない人もいっぱいいます。

けれど、プロに成らないのと、成れないのとではぜんぜん、違うとも思う。

成れないと言われると癪に障る。なんだか悔しい。

間を取って、わたし、毅然とシロウトしていたい。

というか、ぜひに書かねばというミッションに近いものが降りて来るまで、プロには進めないでしょう。

ミッション張ったら、仕事と同じで進むしかない。


いや、アマでも、きりり、根性直さねばならない。

なぜ「うちの息子はかわいくない」のかを深掘りせねば。

いや、そんなのぜんぜん楽しくない。

そう、アマは書きたく無かったら書かなくてもいいのです。

自分を強いるというのは、アマの本領を見誤っている。

ネタに焦るって、本末転倒かもしれない。

ねっ、楽しむために、先祖は「アマチュア」という英語に「愛好家」という訳をつけた。

いいじゃないですか、うちの息子はかわいくない、だけだってほろほろ。



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