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あなたがもう一度読みたいと思う話


何を好むかは人それぞれですから、わたしがどんな話が好きかはあなたの参考にはならない。

でも、わたしたちが「また読みたい」と思う話には、ある共通項があると思うのです。



もうすぐ1年になります。noteには素晴らしい記事が多い。

で、1年間経ってみて「また読みたい」という記事を言えといわれたら、2つになる。

1つは、後谷戸さんの『CAさんがさっきから』。

これは素晴らし過ぎた。

noteにエントリーしたばかりの頃で、こんな逸材がごろごろしてるのかと腰抜かした。

もちろん、後谷戸さんの作品にもユレがあるから、いつもこのスーパーなレベルとはいえない。

けれど、ずっとしつこくフォローさせていただいているのは、ほろほろとしちゃうから。

うかつにも毎度、わたしはその悲しみ色にはまって行く。


たいがい、彼のショートショートに出て来る主人公、もしくは彼の友だちは不器用なのです。

ガリガリ出世し出来るというような男じゃない。

世の理不尽が訪れ、翻弄されてゆく。

主人公は抗うということができないので、哀愁みたいなものが流れる。

きっと、後谷戸さんは自身をお話に投影している。

彼は、ちょっと人を避けて脇から世界の喜びも悲しみも見ている気がする。


で、先の『CAさんがさっきから』に話を戻すと、もう何がいいのかが分からない。

なんだか理不尽でいきなりの展開にいつものように主人公は巻き込まれる。

こんなふうに始まる。


『CAさんがさっきから「お客様の中に云々」と言っているのでイヤホンを取って耳を澄ませると、

「お客様の中に機長のお父様はいらっしゃいますか」と言う。

いるわけないだろと思ったけれども、

そういえばおれは機長のお父さんだったような気がしてきたので「父かもしれません」と名乗りあげると、

「それはよかった、こちらです」と操縦室に案内された。』


読んでみて欲しいのだけれど、とんとんと自然?に話が転がって行く。

ほんとに、何のはなしですか?と興味を掻き立てられ続ける。

最後にどんでん返しがあるというよりも、一貫して流れる理不尽さに引っ張られる。

でも、彼がほんとは何をいいたいのかは分からない。

彼はけっして自分を明かさない。

分からないのだけれど、わたしの胸が何かを受け取ってしまう。



わたしがもう一度読みたいと思い浮かべたのに、もう1つある。

くどうれいんさんの「日記の練習」シリーズ。たとえば、3月。


毎月、彼女は「日記の本番」というのも書いてくれていて、どちらもなにが良いのかがじぶんでも分からない。

先の後谷戸さんは、自分の脳内を一度変換してからほろほろワールドを展開する。

対して、れいんさんは生きてる自身が展開される。

この実写版では、喜怒哀楽する彼女の慌ただしさ、目まぐるしさ、感性、喜びが炸裂する。

日記だから、ストーリーらしいものはないし、ちゃんと説明もしてくれない。

まったく分からないとわたしの左脳(論理、言語)は言う。

でも、わたしの右脳(感性)は、俄然喜んでいる。キャッキャと女子高生並みに狂喜乱舞する。


ふたりに唯一共通しているのは、当人は全力で生きているのだけれど、この世界に翻弄されているところだと思う。

精いっぱい、素直に翻弄されている。

弱い自分を飾らず、隠さず、ありのままに開示しているように思う。

もちろん、混乱の極みに在る当人はたいへんなんだけれども、素直さ、誠実さが貫徹する。

みな素直にはなれないから、それは読み手への稀に見るパワーとなる。

そのパワーがわたしを強引に引っ張って行く。ぐいぐい。

飾らない生き方にわたしの右脳は泣いちゃってるのかもしれない。

ええ、何十年もバリバリに商品企画を凌いで来たこのサラリーマンが。

どこか使い捨ての”人”でしかなくて、競うばかりでこころ開けなかったわたしの中の哀愁がほろほろと泣くのか。



もう一度、読みたいと思うお話には情緒があると言った人がいて、やっぱりわたしもそう思う。

人の魂はなかなか表に出ない、出せない。

でも、情緒はその魂のすごく近くにあるものなのかもしれない。

分析や思考ではその人は分からない。もちろん、この世の深さも知れない。

分からないお話が好きなのは、情緒を介してわたしの魂が喜ぶからなのでしょうか。



P.S.


意外性や飛躍があれば何でもいいなんて女子高生だって、きっと言わない。

人間である悲しみ、寂しさというのがたぶん、わたしたちの基底を流れている。と思う。

そして、わたしたちは、やっぱりお日様が好きだから、朗らかなる話がだんぜん良い。

情緒があり、なんだか心がほんわかするお話。

そういった話をふたりは、わたしに体現してくる。


それらは、素晴らしい作品だ、創作だというよりも、わたしに替わって書いてくれてるようでもある。

だから、わたしは読むのが仲間として嬉しい。そういう感覚がわたしにはある。

わたしたちは、やはり孤独ではあるけれど、また、仲間なのだと思い出させてくれる。

きっと、わたしはじぶんでこう書きながら、そんなウルウル、ほろほろ、ホカホカなものを到底書けそうにない。

しかし、かれらがいてくれることは嬉しいし、誇らしくもある。



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