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この強力な睡眠導入剤


どうしてこんなにわたしは好きなのに、人は興味が無いのかが不思議だという話ですほろほろ。



1.かいがいしい男の話


夜中に目を覚ますと、隣の部屋からテレビの明かりが漏れている。

かのじょは寝れないのだ。

朝になり聞くと、3時まで「寝れなかった」という。

もともと寝つきのよくないひと。

お義母さんが施設に行ってしまって時間管理しなくなった。つい日中に寝てしまう。

と、かのじょの目は夜も冴える。。それが連日、続いている。


アルツハイマー型認知症では、脳の神経細胞にアミロイドβというたんぱく質がたまり、それが神経細胞を破壊し脳が委縮することで発症します。

睡眠中に髄液を介して脳の老廃物が流されるのだけれど、最近、これが妨げられると認知症の発症率が上がるという研究が報告された。

脳は熟睡中に老廃物を廃棄しているのです。溜まると碌でも無いことになるということ。

だんぜん、わたしの出番だ!


かのじょは、読み書きがすごく苦手です。

識字障害があって字がとても読みにくい。

眼球運動がヘタクソすぎて、目が無意識に動いてしまう。

で、これはすごい本だってわたしは思うと、かのじょに本を読んであげる。ことがある。

と、驚くことに、すぐに寝息を立てる。

聞かせたかったのに寝落ちする。

おおーい、おいおいっ!ちょっとは遠慮とか無いのか!


かのじょに興味が無い本だと、あっという間に寝入る。

まっ、それは仕方ない。

が、わたしが良いなと思う本に限って、たいがい、かのじょに興味がない。

どうしてこんなにも興味が違うんだ!同じ人間だろ?


結婚以来ずーっと、数ページも行かないうちに寝落ちするひとだった。

なので、この強力な睡眠導入剤を使わない手は無いということで、ここ数日かのじょに読んで聞かせてる。

わたしが好きな本、中勘助(なか かんすけ)の書いた『銀の匙』です。

匙(さじ)って、スプーンのこと。読まれました?

東の住まいを断捨離し、関西に越す際、どうしても持って行きたい30冊に入れた。

1000冊前後捨てて来たのに、どうしても捨てれなかったほろほろの子。

朗読して聞かせるにぴったりの内容です。

大正の頃の日常が描かれる。

そのトーンは、今で言えば、森下典子の書いた『日日是好日』に近い。(ひびこれこうじつ、と読みます)

さらに宮沢賢治が重なってるような詩的さもある。

正確に言うと、『日日是好日』は感情が強すぎるし、宮沢賢治は詩人すぎる。

『銀の匙』には、ドラマ性はなく淡々とした情緒が続く。

こんな時代もあったのか。知らないはずなのにとっても懐かしい。。

心の描写が深く伝わって来ます。

で、かのじょは5分もしないうちにくぅーくぅーと寝入る。

ぜんぜん、興味ないっ。

あれほど、「寝れないわぁー」とか言っていた御方、速攻寝てしまう。

いくらなんでも、すごくないですかぁ?


2晩続けて寝落ちしてくれたのだけれど、昨晩は寝てくれない。

午前中に2時間の病院検査で疲れ、午後に寝てしまったから当然か?

お年を召したかのじょは白内障の手術に臨む。

「あなたは、まったくわたしの本に興味が無いんだね」という話を事前にしたのが悪かったんだろうか?

ほら、インドの話がある。

ある医者が、「この薬を飲む際は、けっしてサルのことを思ってはならない」と患者に言ったという話がある。

サルを思い浮かべてはならない!と言われてしまうと、それを思わずに薬を飲める者はいないのですよ。



2.重層的なワザを繰り出す男の話


くぅーくぅーと立てるはずの寝息を、昨夜はぜんぜん立てない。

つむっている目が本を聞いていることがわかる。顔も口も緩まない。

面白くないなぁ~、退屈だなぁ~、どうしてこの人こんなにマメなんだろ?とか絶対思ってる。

が、押し付けられた他者のご親切なのだ、ムゲにはしにくいのだろう。

きっと頑張って聞いている。


が、いくら良い人キャンペーン中のわたしでも、限界というものがある。喉も乾いて来た。

ついに、わたしは諦めて、じゃあと言いながら指圧をはじめた。

じぃわーっと、掌が首、肩、背中、腰、足と押して行く。

じぃわーが大切だ。強すぎても弱すぎてもいけない。

押す時、わたし自身が無心になり、そこに深く入らないといけない。

かなり、こちらの集中力がいる。

今までの長い結婚生活の実績でいうと、揉んでいるうちに2回に1回は寝落ちしてくれている。

これも、本には劣るものの、かなりの有効打だ。が、昨夜はダメだった。


あちこち揉むのだけれど、御大、ぜんぜん寝る気が無い!まったく無い!

もう夜中の1時を回ってる。

30分も揉んでいると、あれはどうなのかしら、こうなのかなぁとか言い出した。

黙って揉まれているのもつらいのだろうが、おおーい、おいおい!

そんな難しい話は明日起きてからにしよう、とわたしは諭す。

てへって笑って、寝ようとまたがんばる。

と、また、なにやら浮かんだのか、これはどうしてかなぁとか言う。

そんな難しい話は明日起きてからにしよう、とわたしはまた諭す。

足をばたばた遊ばせてる。

ううーん、このひと、ぜんぜん寝る気がないっ!


とうとう、最後の手に打って出た。

「瞑想ってね、何もしないと心で言いながら腹に落ちて行くんだよ。何もしないんだ」といってみる。

何も無い広大なお腹。無であるそのお腹に深くふかく侵入して行くのだ。

「何もしないようにしようと思ってもね、たいがいひとは何かをしてしまうんだけどね」とクギを刺す。

ほら、お薬ザルの逆バージョンを仕込む。

そして、わたしはかのじょのお腹に掌をそっと当ててじっとする。

お義母さんも言っていたが、わたしの手は置かれるとじわっと暖かい感じになるという。

これは、指圧した後の決定打になる小ワザだ。

良い子はお中に手を置かれると安心するのか寝てしまうのだ。


もぞもぞ、もぞもぞ。

ううーん、ぜんぜん寝る気がないっ。あなたは、思考を緩める気が無い。

もう、知らん!!もう良い人キャンペーンは終了だっ。

ついに諦めて、わたしはじぶんの部屋に行って寝た。



3.強力な中間発表


創作大賞の公募の中間選考結果が発表されたので、エッセイ部門をいくつか読みました。

さすがです。その中でもわたしは2つの記事が強くこころに残った。

①『銀河鉄道みたいな数学だった』

②『「尊厳とアイス」について考えた夜』

どちらも、出版関係者、編集者だったりして目は肥え、力量は抜けていた。


①は、シーンの描写がスルスルってわたしを引き込んだ。

塾の日々、自分が励まされた遠い日々。

過去と現在とを対比しながら、情緒を残します。

②は、息子が卑怯なことを祖母(自分の母親)にしたのです。

で、著者は泣きながら、「ばあばに対して、バカにした態度とるのは絶対に許さないから。私のお母さんなんだよ」と言ってしまう。

子育てと親の介護という2重の難しさを、この一言が言い表す。

情緒というより、感情の発露があります。

②はエモーショナルには強いので惹きつけ感動を呼ぶ。

でも、何度も読みたくなるのは、トーンダウンした情緒ある①になる。

情緒はユラユラしていて、読み手はそこに自分を沁みて行かせられる。



4.中勘助による自伝的小説


中勘助の『銀の匙』は、情緒の最たるものとなります。

本棚の引き出しにしまった小箱の中にある銀の匙をきっかけに、幼年期の伯母に包まれた生活を回想する。

一生懸命世話してくれた伯母さんを描写してゆく。

我儘な彼と、健気な伯母さんとの対比のなかでこちらがほろほろしてしまう。

前編が1910年(明治43年)に執筆され、1913年(大正2年)には後編が執筆された。

夏目漱石に送って閲読を乞うたところ絶賛を得、その推挙により東京朝日新聞で連載されたのです。

1921年(大正10年)に岩波書店から単行本が出版され、1935年(昭和10年)には岩波文庫版が発行された。

岩波文庫版には、なんと哲学者の和辻哲郎が解説を寄せている。

2003年(平成15年)に岩波書店が創業90年を記念して行った「読者が選ぶ〈私の好きな岩波文庫100〉」キャンペーンにおいて、『銀の匙』は、夏目漱石の『こころ』、『坊っちゃん』に次いで3位に選ばれてる。

岩波文庫版は113万部が発行され、岩波文庫で10位に位置するベストセラーとなっているそうな(2006年現在)。

まぁ、文学業界の万全の応援を受けた。そういう本。

漱石せんせんもベタ褒め。

でも、勘助自身は漱石せんせいにも、文学界にも近ずくことはなかった。静かなひと。。


2012年には、同書を使った授業を展開したことで知られる橋本武が解説を付けた版が、小学館文庫として刊行されています。

灘中学校において国語教諭の橋本武は、1950年から、教科書を使わず、中学の3年間をかけて本作品を読み込む授業を行っていた。

その理解と解釈の深い掘り下げ方に物語は遅々として進まない。

で、生徒から「この進捗では3年で終わらないのでは」という声があがるけど、橋本は言うんです。

「すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなる」と。

テーマの真髄に近づき問題をきちんと理解できるかどうか。

“学ぶ力の背骨”を生徒が物語から学ぶよう教鞭を取ったというのです。

橋本武は、「何かを残すためにこの本を選んだ」と語っています。

いわく言い難き、何かを。

で、この授業を受けた生徒に、東京大学総長、政治家、財界人、文化人が輩出されてゆきました。


でも、どんなに有名でも、わたしには「ほろほろの先輩」なのです。

勘助は、情緒モリモリのひとなんです。

人一倍内省的で繊細な感情が、優しく美しい日本語で綴られている。

誰をお手本にエッセイ書きたいかと問われれば、中勘助なんです。

けっして、もものかんづめでもなく、100万回生きたねこの佐野さんでも、武田夫人の富士日記でもない。

かのじょに読んで聞かせるのは、1つには何度もじぶんが読みたいからなのです。

かのじょに読んであげながら、じぶんがふと笑ったり、しんみりしている。


何度も読みたいと思う文章には情緒があるという。

それは、思考とは異なる胸の要求だから。

想いは言葉にはできないのだけれど、彼が、それをすっと現わして来る。

どんなに時代は変わっても、子どものこころの情景は変わらないのです。

「くりからもんもん」の衆がフンドシ1つで向こうハチマキで歌を歌う。

小さかった彼はがらがらいうマメを引く音に震え上がる。

ただ豆を煎っていただけなのに、過敏な彼はすぐベソをかく。

見世物では、「紅白だんだらの幕をはつた見世物小屋の木戸に拍子木と下足札をひかへてあぐらをかいてる男は手を口へあてて、ほうばん ほうばん と呼びたてる」。

「気にいつた見世物のひとつは駝鳥と人間の相撲であつた。

ねぢ鉢巻の男が撃剣のお胴をつけて鳥が戦ひを挑むときのやうに、ひよんひよん跳ねながらかかつてゆくと、駝鳥が腹をたててぱつぱつと蹴とばすのである」。


賢治よりも、勘助はもっと自然にオノマトペを使う。

くりからもんもん、なんて言われるとわたし、一生忘れそうもない。何故か素敵だ。

やがて、青年となった勘助はようやく伯母さんに再会する。

もう目が見えなくなってひどく貧しいのに、また勘助にご馳走してかわいがろうとする。

もうわたし、このシーンに来ると泣いている。

でも、文章にまったく技巧や意図を感じさせない勘助。

そして、過去と大人に成った今とを見せて行く。

先の森下典子の書いた『日日是好日』はとても素晴らしいのですが、しかし、勘助は漱石せんせいが絶賛した、天の人。。

今夜も、ぜんぜん興味の無いひとに、がんばってみようかな。


P.S.

中勘助の『銀の匙』は青空文庫でも読めます。よろしければ。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001799/files/56638_61335.html




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