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あなたが世界に触れる時(2)


続きです。長いです。。ほろほろ。


2.お風呂に行くのが怖いぞっ


夕方、いつものように1階の大浴場に行こうとすると、ひどく嫌だった。

嫌と言うより、怖い。ええ”ーっ!

ここはシニア向けマンション。

よろよろとした70代から90代のおじいさんしかいない。

ほとんどが知らないひとばかり。

今まで、お風呂で難癖付けられたりけんかしたこともなし。

みんなはただ暖まりに来る。

何が怖い??分からないっ。


実は今までも、そういう忌避感は起こってきました。

何十年もサラリーマンしていたのですが、日曜日の夜は頻繁に”それ”に襲われました。

月曜日のことを心配しているのですが、実は怖くもある。

何が怖いというのでしょう?

確かに、会社では嫌なことも起こるし、じぶんひとりでは解決できないこともある。

叱られたりバカにされることもある。競ったり、いがみ合ったりも。

けど、そんなこと滅多に起らないのです。

実際に出社してみると、いつも必ずOです。みんな親切だったりする。

一見もっともそうな恐れも、実はぜんぜん根拠が無いのです。

なぜ嫌なん?何が怖いん?


お風呂のことも、日曜日の夜によく似ていました。

いったい誰が怖いというのでしょう?

いえ、きっと”誰”ではない。

わたしは、”人という存在自体”を怖がっていた。



3.品の無いはなし


デイトレードをしてると、じぶんの欲と恐れに振り回されます。

10万円稼ぐのも10万円失うのも簡単に起こりますから。

わたしは、あからさまに言えば、儲けたいからやっている。

おお、、稼げて来たっ。もっと行け!

イケイケGoGoの後、たいがい大きな損失に向かって行きます。

先日書いたフジ子も、得意になってピアノを弾いていると必ず失敗するわって言ってた通りに。


損してくると、わたしのこころが”嫌だ!”って絶叫する。

資金は溶けて行き、崖っぷちに追い詰められます。

でも、意外なことに、繰り返して苦しむうちに、わたしにいわゆるチェンジが始まったのです。

売り買いの姿勢が変わって来た。

株価を見ながら、上げろ!下げろ!なんていう上からの目線が去り、そっと株価の動きを見るようになったのです。


だめだめが貫通したわたしは、ひどく悔しい。情けないっ。

そんな者は、もはや市場に操作感を持ちようもなくなるのでしょう。

いつの間にか、マーケットに触れる際の”タッチ”が変わってしまった。

気が付くと、敬意をもって市場に接するに近い感覚のです。

市場もわたしに丁寧に扱われているのが分かるんでしょうか。

なんと、丁寧に結果を返してくれるようになって来た。??


このタッチ。。

何十年もむかしのことを思い出しました。

若いわたしにとって、女性は神秘でした。

あなたも、初めて異性に触れたその瞬間を覚えていると思う。

お互い、すこし震えていたかもしれません。

わたしの全存在が無防備に開かれた瞬間でした。

ときめきと驚きと切なさが入り混じっていたかもしれない。

触れた際の、空間と光線と温度、目の角度、肌のやわらかさと熱と湿り気、髪の匂い、息遣い。。

それらはわたしの五感すべてで記憶され、そのピュアな感覚はまだわたしの中にいる。



4.触れる


苦しんだ者の中には、まれにチェンジが起こるのでしょうか。

わたしは、マーケットをお金をかすめ取る対象とはもう見なくなったのです。

ひどく追い込まれ、市場を操作できる対象とはもう見れない。

巨大な畏れ多いものに変わったようです。

触れれば大やけどするかもしれない相手。

市場の機嫌が悪ければ、ドロシーも驚くほどに遠くに飛ばされるかもしれない。


わたしは、とっても悔しかったのです。

でも、情けない日々が繰り返されると、オレがオレがという主語を段々無くして行く。

で、マーケットはわたしにとってはそっと触れるものという対象に変わったのでしょう。

わたしは隅っこでそっと眺めるのです。

もちろん、ときどき、エゴがぐわーっと盛り返しては、またまた叩かれる。。


たぶん、愛という言葉がもっとも近い感覚かもしれない。信じられます?

大袈裟に聞こえるでしょうが、デイトレーダーもそれほど大切に市場にそっと触れる。

その時、ときめきと驚きと切なさが入り混じっているのかもしれません。

どんな時に、このチェンジが起こるのか?

株価の動き自体に純粋に興味をもてるようになった時でした。

感情から、徐々にスキルの習得へと舵を向け始めていました。


現時点の株価は何で決まるのか?

市場の言葉でいえば「需給」という、買いたい者と売りたい者とのバランスで株価が形成されて行きます。

それは、わたしたち人間というものの姿を現わしています。

欲と恐れにドライブされて参画する、ひとたちの阿鼻叫喚の向こうをわたしは見ようとする。

そこには、興奮と驚きと悲しさと不可知があると言えます。

市場に触れるタッチが繊細な時、わたしはただ感じて行きます。



5.保身


デイトレーダーとして生き残り何十億も稼いだひとたちには、共通するものがあります。

単にお金目当てではなかった。

かれらは、理解や興味といった純粋な部分をもっている。

市場の動く様を、深い!面白い!と思っている。

一方、お金が狙いだと言う者は、どうしても市場に対するタッチが粗くなるようです。

イケイケGoGoだと、欲と恐れが邪魔し分析もいい加減になり、気づきが減るのです。

それでは、財は築けない。

この世は、結果ではなく、プロセスにあることこそ命でしょう。


もちろん、誰もが生活のためにお金は必要です。

でも、お金を第1の目的にした活動は、意外なほど自分自身を制約します。

本人は「儲けたい」と思ってる行為主体のつもりなんですが、「儲けろ」と強いられている。

そのどん欲なプレッシャーに運ばれて行ってしまう。

だから、どこか嫌な感じがしたり、損を怖がったりするのは、それがじぶんの「ほんとの声」じゃないからでしょう。

サラリーマンもお金や生活費という錦の元に、じぶんを強いることが多いです。

そして、驚くことに、無理強いされている自分自身を認めません。

本意でない役割をしているのは惨めでしょう。だから、自身を偽り自他から隠す。


お金というような”品の無い”目的をメインに設定してしまう。

と、もっている才能やパワーが小出しになってしまいます。

儲けたいとか、良く思われたいとか、嫌われたくないを主眼にすると、みな同じことが起こるでしょう。

自分自身に「良い子」を強制し続けると、いつしか、こころは周囲を怖がります。

でも、本人は、何が、なぜ怖いのかが分からない。

そうなると、あなたはきっと人と接するたびにソワソワします。

人や世界が怖いという者は、自分を射貫くであろう他者の目が怖い。

偽っていることが他者に知られてしまう。

いいえ、わたしがじぶんの本音を知ってしまうのです。

ああ、、ほんとに情けないのは保身に逃げてた自分じゃないか、というわけです。

知れば(認めると)、ふいに会社、辞めちゃうかもしれない。



6.プロの条件


一流の条件って純粋さだと思う。集中し極めたいという感覚です。

野球でいえば、オオタニさんは驚くほどストイックにピュアです。

二刀流なんて止めとけ、絶対無理だと何度言われても自分を信じた。

なぜ貫けたのかと言うと、それはお金のためではなかったからでしょう。

稼ぎたかったのなら、きっと彼は監督や権威者の言葉に従ったはずです。

でも、そんなの無視した。関心がそこでは無かったから。


ゴッホやピカソがお金が絵を描く第1の動機だったとしたら、ああいう絵を描けたのかと危ぶみます。

宮沢賢治が、金銭や名誉のために詩や童話を書いたとはとうてい思えない。

かつてエジソンがいった言葉はデイトレーダーにも金言です。

「私は一度も仕事したことがない。それらはただ楽しかったのである」。

ほんと言えば、わたしはお金が欲しいわけではないのです。

儲けたいという割に、具体的にいくら稼ごうなんて考えたことも無い。

こてんぱんにやられているうちに、市場というにんげんの営みが深く面白いと思うようになったんだと思う。


品の無いデイトレーダーであっても、お金に夢中になっては本末転倒の坂を転がってしまう。

この世の名誉や金銭に吊られたままだと、自分の持つ能力を全開にできないのです。

全開にしないなら当然成果はいまいちとなり、自分を信じることも出来きない。

面白い、不思議だ、しびれるといったワンダーを持ってこの世界に触れない限り、品の無い活動になる。


きっと、強烈なワンダーを胸に持つ者でなければ深みには行けないのです。

神秘と畏怖、驚きと喜び。

だから、あなたが持つ興味やピュアな熱意には黄金の値打ちがあります。

そして、そのピュアさは、そのタッチに現れるでしょう。

じぶんが今、世界をどう扱っているかは、じぶんが接する際のそのタッチの仕方で確認できます。

家族や恋人や友達、仕事を自分がどう扱っているかも見ることができる。

大切なのは、じぶんがどう思っているか、ではないのです。

じぶんがどう扱っているかでしょう。

敬い、優しく触れているでしょうか?

初めてあなたに触れた時のように。

いや、もちろん、むかしのあのタッチにはとうてい及びませんが。



P.S.(けっきょく、お風呂に行きました)


自分に誠実であれない時、わたしは自分が信じれません。

と、不安がやって来る。怖いかもしれない。

ほんとの自分を晒さないようにと他者を避けます。

ぜったい知られたくない。

惨めさも認めたくないわたしは、辻褄あわせに自己を偽りで飾ります。

このサイクルは容易には抜け出せないかもしれません。

でも、自分の”可能性”を信じるという所までなら行けそうな気もします。

素直に興味を持ち、喜べばいいでしょう。

そうすると、もう乱暴には対象を扱わなくなります。

丁寧に扱いながら、ひとはじぶんの”ほんとう”に願っていることを聞くでしょう。

ひとは苦難の先に、段々と優しいタッチをするようになるのです。

あなたが、この世界のすべてに優しくタッチして行く時、

他者評価や世間体のウェイトはさがり、ようやく世界をありのままに楽しむでしょう。


お風呂に行こうとしたあの日、わたしは惨めに負けていました。

強がってる裏に、ちっとも稼げないだめだめ男がいることを、

かのじょにも言えないような屈辱を感じてしまう弱い男だということを、隠したかったでしょう。

でも、しばらく考えてから、わたしは1階のお風呂に行きました。

隠そうとしていたことが分かると、もう誰の目も怖くは無くなった。

仮に誰かに見られても、「ほんとの自分」は変わらないのですから。

わたしは、隠そうとした偽りと情けなさを受け取ったのです。

行って、湯船に首まで浸かりました。

わたしのこころは言いました。

さぁ!わたしを見なさい!

いいえ、おじいさん達は目をつむってじゎっと浸っているだけでした。


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