「よく書けてはいるけれど、心がこもってない」と言われたら ― 決して捨ててはいけないもの
ときどき、これは誰に向けて書いてるんだろう?って時がある。
じぶんに宛てて書いているようです。
きっと、じぶんに語り掛けたいのですほろほろ。
1.長い謎
何十年も、「魂」ってほんとにあるのかな?と思って来た。
ぜんぜん、はっきりしない。
臨死体験者の話を読むと、「わたし」と言うこの意識とは別に、それはあるんじゃないかと思えてくる。
いや、そっちが主役で、ハートにお住まいになってる。
何ではっきりしないかというと、「わたし」と言う感情や意識が雲として胸を覆ってしまうから。
「わたし」は、その黒雲のせいで本家の「魂」の声が聞こえない。彼女が住んでいることさえ忘れて行く。。
「魂」って、ほんとにあるのかな?
ある時、サンガ・ヌーナの弾く『Oblivion』を聴く。
そしたら、この胸が、ほろほろするのです。
誰がほろほろしてるん?「わたし」?いや、もっと深い存在が泣く。
きみは、誰?
たいして怪しい話をしたいのではありません。
ただ、わたしが胸を開いた時は、いつも切なさと解放が来るのです。
冒頭からはじまる哀愁の旋律にわたしのこころは鷲掴みにされます。
静謐(せいひつ)さと悲しさが合わさってる。
初めて聞いたのに、よく知ってる曲ってある。
ずっと昔、きっとあなたと聴いたであろう調べです。
みんなは、それは気のせいだ、うまい作り手はそんなふうに作るんだとか言うけれど、説明になってない。
どうして、こんな曲が作れるんだろう?ってわたしは思う。
なぜ、懐かしいんだろう?
サンガ・ヌーナは、急にキリリと鍵を打つ。パッションが立ち上がって行く。人の儚さを想わせる。
きっと、わたしがそれを経験したのは怒涛の時代だったのです。
けっして、幸せを見ることのない時代の出会いだったでしょう。
あなたとわたしが出会い夕日が沈む。ススキ揺れる川原の。。
いったい誰が作った曲なんだろう?
2.Oblivionを書いた人
調べてみると、アストル・ピアソラという人でした。1921年、アルゼンチンに生まれてる。
以下から引用いたします:http://pianolatinoamerica.org/piazzolla/piazzollabio.html
彼の父は、ピアソラが生まれた頃は自転車屋をしていたけど、大の音楽好きでギターやアコーディオンが弾けたらしい。
1925年、一家はアメリカのニューヨークに移住します。
ニューヨークでのピアソラはいくつもの小学校から放校されてる。
8歳の時、父にバンドネオンを買ってもらう。
最初は興味を示さなかっったけど、それでも10歳の頃には1日何時間も練習をしていたという。
1933年、あるピアニストの演奏をピアソラは聴いて感動し、自から希望してレッスンを受けます。
その人からはクラシックの和声や作曲の基礎を教わってる。12歳でした。
やがて、タンゴに魅せられる。
一気に夢中になり、1939年に首都ブエノスアイレスに一人上京します。
有名なトロイロ楽団のバンドネオン奏者に採用されます。
一方で、ピアソラはクラシック作曲家への憧れを持っていた。
なぜ、こんな話をするのかというと、『Oblivion』を書いて演奏した人だから、わたしには才に恵まれた人に思えたのです。
きっと、タンゴが好きで好きで本懐を遂げたんだと。
彼は有名になりました。でも、本懐は遂げられませんでした。
3.あなたは一体どこにいるの?
それは、わたしの青春の頃のこと。
わたしは、アルトゥール・ルービンシュタインのピアノが大好きでした。
ぜんぜん昔の人だと思ってたピアソラに、ルービンシュタインとのクロスがありました。
1941年、ピアソラはブエノスアイレスに来ていたルービンシュタインの宿泊先を訪れます。
自作の協奏曲を見てもらったのですが、ルービンシュタインに「勉強が必要」と言われ、ヒナステラを紹介してもらう。
ピアソラはバンドネオン奏者として忙しく活動しながら、約五年間にわたりヒナステラから作曲法・管弦楽法・和声を学びます。
彼はバンドネオン奏者になりたかったんじゃないのです。
タンゴは大好きだけど、タンゴじゃないんです。クラッシックだった。
トロイロ楽団でのピアソラの個性的な作曲・編曲活動は他の楽団員やトロイロとの軋轢を増し、ついに1944年にトロイロはピアソラを解雇する。
同年、タンゴ歌手フィオレンティーノの伴奏楽団の音楽監督に抜擢されますが、ピアソラの大胆な編曲とは合わず、結局1946年にフィオレンティーノとも別れる。
1946年から1949年まで、Astor Piazzolla y su Orchesta tipicaを結成します。
タンゴ曲を作り、だんだんと知られて行く。
でも、クラシック系のピアノ曲や室内楽曲なども作曲しています。
タンゴを愛しながらも楽団とはうまくやっていけず、一方クラシック作曲家になる夢を持つ。
タンゴとクラシックの間で揺れ動いていた。
いや、彼はクラッシックを諦めなかった。
1951年に発表された交響的楽章「ブエノスアイレス」が、セヴィツキー・コンクールで一位を獲得する。
1954年、フランス政府からの奨学金を得てパリに留学に。
胸を大きく膨らませたでしょう。才能が認められ始めたのです。33歳です。
パリでは、有名な作曲家のナディア・ブーランジェ女史に個人的に師事し、厳しいレッスンを受けます。
ナディア・ブーランジェとの出会いは、その後の彼の運命にとって重要となります。
引用元の記事によると、『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』という本にはこうあるという。
初めてブーランジェの家を訪れた際に、それまでに書いたすべてのクラシック作品の譜面を携えていったピアソラは、バンドネオン奏者としての、タンゴ音楽家としての素性は明かさなかったのです。
課題を黙々とこなし、真面目に作曲や理論の勉強を続ける日々が続いた。
ある日、彼女はピアソラに対して、あなたの作品はよく書けてはいるけれど、心がこもってないと告げる。
アストル・ピアソラは一体どこにいるの?
あなたは自分の国では何を弾いていたの?
まさかピアノではないでしょう。
思い悩んだ揚げ句、ピアソラはそれまでの経歴を語った。
それではあなたの音楽を、あなたのタンゴを聴かせて頂戴と女史から促されたピアソラは、渋々ピアノに向かい「勝利」を弾いた。
聴き終わった女史は目を輝かせ、ピアソラにこう言った。
「素晴しいわ。これこそ本物のピアソラの音楽ね。あなたは決してそれを捨ててはいけないのよ」
1955年、パリからアルゼンチンに帰国したピアソラはブエノスアイレス八重奏団、およびアストルピアソラ弦楽オーケストラを結成。
1958年に両者とも解散させてからは、同年ニューヨークに移住し、いくつものミュージシャンと共演。
1990年8月4日、パリ滞在中には脳出血で倒れます。
アルゼンチンのメネム大統領はアルゼンチン航空の特別機をパリに差し向け、8月14日ピアソラはブエノスアイレスに到着。
その後、闘病生活の末に1992年7月4日死去。享年71歳。
(引用元さま、ほとんど引用でまことに済みません)
「アストル・ピアソラは一体どこにいるの?」と問われた時、彼は胸にあったことを観念したでしょう。
4.誰が泣いているの?
『Oblivion』は、ふつうタンゴの格調高いバンドネオンで奏でられる。
でも、サンガ・ヌーナの弾く『Oblivion』は若い躍動感があります。
彼女の情念がほとばしる。彼女が魂込めて弾いていることがわかる。
ピアソラの作った数々のタンゴの作品はもちろん、有名。
で、彼の作ったピアノ曲は、「よく書けてはいるけれど、心がこもってない」という評が今でもされる。
後世に残るような作曲家渾身の作品とは呼び難いという。
ピアソラの本領は、あのむせび泣くようなバンドネオンで歌われるタンゴにある、という。
たしかに、わたしの胸は『Oblivion』に泣く。
好きなことと、その人が出来ることはほとんど違う。惨めなほどに、違う。
「よく書けてはいるけれど、心がこもってない」と言われ愕然としたでしょう。
プロ中のプロの師匠にそう言われたら、わたしだったら絶望したと思う。
でも、彼はアルゼンチンに生まれたんだもの。
生まれた時から先にタンゴが魂に書き込まれている。
魂は一度魅入られたら生涯忘れない。
ピアソラという「わたし」の夢は実現されなかったけど、人にはけっして捨ててはならぬものがあるでしょう。
あなたの好き嫌いに関わらず、あなたが「出来ること」は、偶然では無い。
タンゴを歌い続けろと、彼の魂が願ったでしょう。
あなたにも「又裂き」があるかもしれない。
「わたし」が願うことと、「魂」が命ずることとが一致できないというようなことが。
自分の魂の声が届きにくくても、他者もみな「魂」を持っている。
他者を介して、彼は魂の声を聞いた。
「よく書けてはいるけれど、心がこもってない」と。
絶望ではなく、きっと彼は観念した。
諦めるとは、明らかに知らしめるという意味ですから。
多くの人は時節が来ると去って行きます。
こうして書いていても空しくなることがある。
そんな時、ほんとの声を聴けとピアソラの魂が、わたしのハートに届くのでしょう。
わたしの胸は、Oblivionに泣く。
P.S.
『シンドラーのリスト』のテーマ曲です。
冒頭からはじまる哀愁の旋律にわたしのこころは鷲掴みにされる。
そして、パッションがわたしを開かせる。
凄腕のサンガ・ヌーナにやられっぱなし。
床に倒され、わたしはぴくぴくほろほろとする。