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あなたが何度も繰り返し苦しむうちに(はじめに)
いい子の中にいい子じゃない部分があるから、すてきなのかもしれない。
うつくしい部分とへんな部分がまじりあっているから、
もっとすてきになるのかもしれない (川上弘美、「七夜物語」)
弘美さんがそう言うのなら、きっとそうなのです。
で、思ったのは、気に入らない人のこと。
あなたに、あいつは嫌いだ、という人Aがいるとします。
どうにも我慢ならない。イライラするぞっ!
あなたは、仲間についそういってしまう。
でも、仲間はあなたがAが嫌いだと言っても意外に同調しないのです。ふ~んぐらい。
そんなこと、ありません?
で、仲間はBが嫌いだという。
不思議なことに、あなたはBのことは好きでもないけど、ぜんぜん気にならない。
いや、気にも掛けていなかった。
いったい、何を根拠にお互いの好き嫌いがきまるん?
あなたが、「嫌いだ」「気に食わない」「好きじゃない」と言う時、それなりの根拠がある。
かなり”ある”。だから、全然、許せないっ。
なぜ、こんなにも他者に同調してもらえないのか?
わたしの我がまま??
わたしがへんなの?
わたしの答えは、簡単で、あなたが嫌いな人のうちの何割かはあなたの中にある、ということです。
わたしたちは、自己を他者に投影する生き物なんだそうな。
自分を投影できない者のことは、気にしようもない。
ただそこにAやBが居るということになってしまう。
嫌いだは自分と同じものを、好きだは自分に欠けているものを探していた結果でしょう。
違います??
弘美さんは、にんげんの美しき面を言葉にしたと思う。
わたしの上の説明は、ちょっと潜在意識の話でしょう。
潜在だもの、本人は気が付けない。
いや、そもそもそんな自分の本性を認めたくもない。
だから、わたしたちは”嫌いだっ”、”好きだ”で済ましてしまう。
そこの地面をぐるぐる回るアリンコのようになってしまう。
そこから離れてもし木の上から地面を見れたなら、ぜんぜん違う景色に見えて来るのに。
それは、偉大な気づきでしょうが、気に登るにはチェンジが起こらなければならないのです。
潜在的に自分を支配しているこの悪しき感情を超えて行かねばならないわけですが、
言葉や知識は、わたしたちを変えてはくれません。
潜在意識や感情を超えて行くには、経験という心身が苦痛に晒されないとならない。と思う。
ひどく苦しんだ者だけが、その苦しみを客観視できた者だけが地面を見るのです。
ああ、、いったい誰が苦労などしたいのでしょうか。
苦痛はすぐに忘れ去らねばなりません。
「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、善きことも、悪しきことも連れて来るということを意味しています。
嫌いだは他者に我が醜い半身を見ており、好きだは自分に欠けている半身を探しているのです。
感情は、かなり正確なリトマス試験紙でしょう。
善きことだけを求める間は、平穏なこころは実現しない。
アリンコのようにいつまでも同じ苦痛を繰り返してしまう。
善きことだけでなく、悪しきことも自分の内に認めない限り、たぶんわたしたちは自由になれない。
ここで弘美さんにすり寄ると、
自分の中に善い子とともにダークな子がいると受け取るから、人は「もっとすてきになるのかもしれない」。
それは、単なる気休めな言葉でしょうか?
いや、最近、これが黄金律だと、ゴールデンルールだと痛恨に思い知ったので、それを書きたいのです。
じぶんのうちに居る”悪い子”をようやく探し当てた。
4か月間、苦しんで。
でも、それはいつものように長くなるし、あなたのぜんぜん興味の無い話なのです。
ああ、、まったくもって申し訳ない、です。
ということで、別建てで書かせていただきます。
こんな長い文章でさえ、話のさわり、まったくの前置きなんですから。
気が向いたら読んであげてくださいませ。ほろほろ。