
叶わない夢、失われないもの
惨敗のトレード日でした。
失敗自体は事実でしかない。なぜ失敗したのか、じゃあどうするんだが分からないといけない。
でも、悔しい。。分析を続けました。
夜になり、Noteを読みました。
月曜日だった。
気合の入ったものがまさか読めるとは思ってなかったのです。
おお。。。魂揺さぶられるっ。しかも、もう一人書いているぞっ。
みんなは週始めだというのになぜか気合を入れてきた日だった。辛さ、ほろほろ。
1.叶わない夢
ある賞の候補になれたのだそうです。
候補に選ばれ当初はとても浮かれていたのだけれど、でも今は憂鬱だという。
他の候補者たちの作品を見たのです。自分の力量を思い知らされ絶望したと書いていた。
なぜこんなに絶望するんだろ?
自分が一番忌まわしく思って来たことを自分がしていたのです。
知能が高い方で、高校での偏差値は75だった。
でも、無理を重ねた75だった。ふと、受験という競争が空しくなりその時空から退いた。
東大も京大も可能だったのにやめてしまった。
以来、会社の出世レースに限らず、誰かと競争して優劣をつけることから逃げ続けてきたという。
なのに、また世間の認知が欲しいと賞を狙っていたことに気が付いたのです。
賞の候補になるという稀なることを実現しても、全然満たされない。
しかも、どこまで行っても、競う限りはさらに上がいた。
でも、高校生の時のひとりぼっちだった自分と今は違うのです。
彼には不登校となっておのれの繊細さと戦う息子がいた。
最寄駅から自宅までの帰り道、かれは意を決して息子に話しかけます。
お互いにお互いの優劣をジャッジし合って生きている世界の住人なんだと思い知ったと話した。
こんなことに固執しすぎると、人間もまた腐っていくと知っているのにと。
なぜ、こんなバカげたことに自分は執着し続けてしまうんだろうか?と正直に聞いた。
息子は、「自分の存在を忘れ去られたくないからじゃない?」と返す。
その瞬間、かれはずっと自分の視界を塞いでいた深く濃い霧がぱっーと晴れていくような心持ちになったと言う。
わたしたちは、「あらかじめ誰からも忘れ去られることが定められた存在だ」けれど、
「きっとその不安におびえるからこそ、僕(たち)はできるだけ多くの人達に自分のことを知ってほしくて、
できるだけ多くの人の特別になりたくて、こんな風に人前で「書いている」のかもしれない」と彼は気が付いた。
ひょっとしたら、「自分の肉体が消え去った後も、ずっとこの世界に残り続けるような作品を産み出したい」のかもしれないと。
「決して叶わない夢」を願っていたのじゃないか。
だから、あまりに「救いがなさすぎるとこの数日、僕は文字通り絶望し」たのだと。
でも、今の自分は「本当はそうじゃないよな」と言い切れるという。
「本当のやさしさや思いやりってのは、きっと時間も空間をも超越して、
忘れ去られることなくずっと誰かの心の中に生き続けて、
くじけそうになった人々の心を励まし温めてくれるものなのだ」という。
きっと、自分が死んでも息子の胸に自分は生き残るじゃないかと言っているでしょう。
家族へのこの善き想いは、きっと息子の子たち、そのまた子たちへと伝わるんじゃないか。
「やさしさが脈々と受けつがれて、その頃にはもはや自分の片りんなんて跡形もなくなくなったとしても、
それでも、それってやはり最高に素晴らしいことだって思う」と言う。
今回、「自分には才能がない」と落ち込んだのでした。
でも、同じようにただグランドを1周してしまったのではなく、次の担い手が並走していました。
まだ小さくて自分のことも世界も持て余す息子だけれど、
自身に誠実であろうとする血脈がこうしてすぐそばで奮起していた。
自分も才能のせいにしないで、その血脈にこそ答える責務があるんじゃないかって。
ずっと死ぬのが怖かったとも言ってます。
誰からも自分の存在を気づかれないまま、消えていくことにずっとおびえていたと。
でも、「どこにでもいる吹けば飛ぶような将棋の駒みたいな僕という人間」が、ようやく救われた日だったというのです。
「こんな僕の周りにいてくれる人々に対して、できるだけやさしい人でいられる」ことこそが永遠なんじゃないか。
それを生涯貫いて死を迎えたられたんだったら最高じゃないかって結ばれた。
父と子。N.O.T.Eさんが書かれました。なぞってばかりですみません。
同じような想いを繰り返して来たわたしなので、こうコメントしていました。
「よくぞ、書いてくださいましたと言いたいです。
辛いことがあるから、ここまで書けたのかもしれません。
”絶望”と書かれていますが、夜明け前がもっとも暗いのだそうです。
この闇があったから身を振り返ったのでしょう。あなたが一層飛躍されるように思えてなりません。
ぜひ、書き続けてください。 言い過ぎてたら、ごめんなさい。」
2.失われないもの
記事のヘッダーは、雪降る中を夜汽車が向こうからホームに入線してくる映像です。
駅のホームの明かりが線路の周辺の雪だけを寂しく照らしてる。
もうこれ見ただけで、雪国育ちのわたしに父や母と暮らした世界が浮かび上がった。
「58年も昔の話。
6歳の私、4歳と1歳の妹と母の4人で夜汽車に乗って父に会いに行った。
家から遠い病院に入院中の父にお土産を持って。」と書き出された。
父が不治の病に罹ってしまうのですが、入院先の病院は遠くにあった。
「真っ暗な坂道を母と私たちは駅まで歩いて下った。
母は1歳の妹を背中におぶい、4歳の妹の手を引き、もう片方の手に荷物を持った。
私は子どもにとっては大きな荷物を持って歩いた。」
「やっと汽車に乗ると、ホッとする。向かい合わせの座席に4人で座る。
といっても私たち子どもは寝てしまうので座席から落ちないように母が足で突っ張っていたのを覚えている。
ガッタン、ゴットン・・・。何時間も揺られながら、トンネルに入ると急いで窓を閉めた。
明け方到着。駅の洗面所で顔を洗う。きっと汽車の吐くススで顔は真っ黒だったのだろう。
ディーゼル機関車の時代だった。
病院まではバスに乗ったのか、覚えていない。」
心細さに母子は震えていた。夜汽車に乗って行ったそのくだりはもう半世紀以上も昔のことなのに、今も鮮明なのです。
「病室に着くと父は満面の笑みで迎えてくれた。確か8人部屋だった。
同室の皆さんに小さなお土産を渡す。みんな、自分の家族が来たような喜びよう。」
家族5人の温かい時間だったという。
で、ここからわたしは泣かされた。
「父は時々家に電話をくれた。みんなで交代に喋ったものだ。
電話を切ってしばらくすると、母は編み物をしながら泣いた。母が泣くと、妹たちも泣きだす。
私は泣かなかった。私まで泣くと、本当に何か悪いことが起きそうな気がした。
そして、そっと母の背中をさすった、何も言わず。慰めや励ましの言葉を知らなかった。」
「ある日の父の電話は最悪のものだった。検査の結果がとても悪かったのだ。
「死」を意味するほどに!母は受話器を握ったまま気を失った。
私は急いで受話器を取り、父と喋った。
喋りながら、妹たちにも大きな賑やかな声で喋ろ、と手で合図した。できるだけ何でもない風を装って。
「お母さんは?」と聞く父に「うん、ちょっと疲れたみたい、大丈夫よ」と噓をついた。
電話を切った後、気がついた母はやっぱり泣いた。そして私は母の背中をさすった。」
「58年後、ガンを患った母が苦しい時、やはり私は母の背中をさすった。
薬を飲ませた後、落ち着くまでさすった。今度は慰めや励ましの言葉をかけながら。
58年前のことを思い出しながらさすった。」
一世一代の家族旅行をしたという。
「みんな揃って旅行するなんて、もちろん初めてだった。
父は入退院を繰り返していた。彼女は16歳になっていた。
日頃はとても質素な暮らしなのに、違和感を覚えるくらい贅沢だった」そうです。
これが家族揃っての最初で最後の旅行となったと書いている。
ずいぶん後になって、母は「好きなことをさせてください、って病院の先生に言われたの。
だから思い出をつくろうと思って旅行したんだよ」と明かした。
今になって、母は本当によく頑張ったなと思うと書いています。
「結婚で一旦は仕事を辞めた母だけど、父の病気で仕事に復帰した。
治療費や入院費が必要なのにお金がなかったら大変なことになる、という恐怖心があったそうだ。
加えて私たち姉妹を高校まではなんとか行かせたい、と強く思っていたという。
父もまた、強い気持ちで運を引き寄せたのかなと思う。医者が父の回復を「奇跡だ」と言ったらしい」
「母が亡くなってから特に、昔のことを思い出す。
しかし思い出して温かい気持ちになったり、勇気を持つことを思い出したりするのも悪くない。
思い出は人生を豊かにする、と思っている。」と結ばれている。
チョロトラさんの「夜汽車に乗って父に会いに行く」です。
母の苦労は確かにあったのです。その母は、苦しまないようにと我が子を守った。
母がいてくれたから、わたしは生きて来れたのといっているでしょう。
娘たちを必死に守ろうとした母の善き想いが、死後もこうして娘を励ましている。
感極まったわたしは、こうコメントしていました。
「もう、わたし泣きますよ。。何ていったら良いのかもよく分からない。
でも、夜汽車が今も父と母と妹たちとあなたとをずーっと遠くの青い銀河の先まで繋げていることは分かりました。
書いてくださってとてもありがとうございます。」
3.制約が制約でなくなり、単なる事実へと変わる時
1つ目のN.O.T.Eさんは息子への感謝と泣きながらする同胞への励ましでした。
2つ目のチョロトラさんは苦労した母への鎮魂歌。
ひとは生活という時間軸、空間軸では、どうしても苦しみや悲しみを帯びてしまうでしょう。
そして、わたしたちは無念さ、理不尽さが大嫌いです。
でも、それをじっと掌に置いて見つめたら、そこに救いが来る。
お釈迦さんもイエスもアッラーもこの世の誰一人もわたしに与えることはできないものが来る。
じぶんのことだから、じぶんしか与えられない。
いや、無念と苦しみにも関わらず、わたしの底に流れる善き想いがたいせつなひとを引き寄せ、
その周囲のたいせつなひとを通じて救いを受け取るのでしょう。
だから、おふたりは書いた。
泣きながら、ありがとう、ありがとうと。
救いとは、自分が捕らわれていたことからの解放です。
涙が浄化する。
泣くと制約が制約でなくなり、単なる事実へと変わる時が来る。
もちろん、けっして、現実の困難や制約がなくなるということではないのです。
けれど、時空に縛られていたこの身を一瞬で飛び越える。
そんなふうにして、わたしたち本来の自由という創造性の根っこが再び立ち上がる。
おふたりは、身を晒してわたしたちにメッセージしてきました。
慌ただしい週初めの月曜の夜でした。
わたしは、ほんとうによくぞ書いてくださいましたと思い、御礼を申し上げたのでした。
かんしゃいたします。ありがとうございます。