見出し画像

【多角的な視点を持つとは?】日常的な生活を非日常的な方法で生きてみる。(じぶん用備忘録)

出会いが偶然ではないとしたら?
出会う人たち、起こる事象が
じぶんに「必要なこと」を
「見せている」としたら?

全ての出会い・事象が
じぶんに必要であったと
認識できるようになると

人間関係の世界で自由を手にする。

どんな人・事象からも希望を見出し
それを自分の反映として受け止められる。


意味づけに意味はない。

ことの良し悪しの判断は「受け取り側」の問題
意味は「受け取り側」が与えているだけなのだ

外から意味を引っ張り出している訳ではない。

意味は

じぶんが理解するためだけに存在している
じぶんを通して解釈するときにはじめて生まれる

すべての事象に
意味を見出し納得し
それをじぶんのものだと
握りしめたい…と自我が葛藤する

すべてはただ存在するという
中立な状態なら意味づけは
存在しないのだ(意味がない)

意味づけをせず

あぁそうなのだ…と

ぽんっ と

手放すことができるか…


じぶんに問いかけてみる。


何らかの意味をもたらしたり
解釈をじぶんなりに作ってみても

今この現在の私が納得するためだけ。

10年後の私にとって全く意味のない
解釈や意味づけの可能性だってあるのだ

今この瞬間の自我を満たすためだけに
意味づけしているのは有意義だろうか


自我(エゴ)は

手放したら…
乗り越えたら…と

条件を出してくる


何かをやらなければ
何か成し遂げなければ

ただ「今ある」ことに
恐れ(怖れ)が生じるとき

あぁそうなのね
そう感じるのね

そういって
眺めてみる



目の前に現れる事象に
多角的な視点をもって
ただ観察してみる


ただ「今」を生きてみる。


いま目の前に起こる事象に
わたしがどう反応するかを
観察する視点で生きてみる。


気が散漫になったり
思考が飛び散るのは
エネルギーのロスだ

自我(エゴ)が
自分はココだ!と
主張しているだけなのだ


ただあるという状態になると
自分がなくなるという恐怖が
そうさせているだけなのだ

「ただある」状態で
じぶんの世界を観察し
自我との二人三脚を楽しむ

日常的な生活を非日常的な方法で生きてみるただあるという視点を見つけて感情の揺れを善悪つけず観察することを楽しむ

ユンボを操縦するようにそっと優しくすくってリリース🤲
それを繰り返していたらフと気づけば周りが整っていた。


✳︎


豊かな喜びのなかにいるわたしが伝える。

「大丈夫だよ」と数年前の私に向けて🥰。





見に来てくださりありがとうございます。サポートいただけることで、綴ったことばが届いている♪という喜びになり、noteを続けていける励みになります。