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悲しみの大小

映画やドラマ、小説の中で主人公たちにとって転機となる悲劇に対して「これがそんなに人の何かを変えるほどのこと…?悲劇としては弱いのでは…?」と感じることがある。

もっと劇的な、心の底から絶望するようなことじゃないと…と。

でも、人によって絶望も悲しみも、その受け取り方も大小もそれぞれ違う。

頭で理解してても、そんなの当たり前だと思っていても、普段の私は忘れている。

物語は私に、いつのまにか振りかざしている"自分尺度"の存在を気づかせてくれる。

きっとそんな私の尺度は、日常生活の節々に出てしまっている。

人の悲しみを「それじゃあ足りないよ」だなんておこがましい。

私だったら耐えられる、もっと悲しい体験をしてきた...

反射的にそう思ってしまう私はいつだって誰よりも、"私"を見てほしくてしょうがないんだ。

でも、私が私自身の悲しみを肯定するためにも

他人に人の悲しみを測ることなんてできない、そのことをきっちりと肝に命じて、その都度思い出していかなかればいけない。


そう考えると、他人を本当の意味で「わかる」ことなんて一生ないのだろうか。

それでも私たちはわかってほしいし、わかりたいと思う。

わかってほしいから表現する、わかりたいから歩み寄る。

一生わかりあえなくても、わかり合いたいと動く人間の“心"というものは矛盾だらけでだからこそ美しい。


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