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宗教

 「宗教」と聞くと、たいていキリスト教、イスラーム、仏教、神教、儒教、ヒンドゥー教あたりを連想するだろう。しかし、現代では科学もそれらに匹敵するほどの大きな宗教なのではないかと思う。

 古代ギリシアで科学の議論は宗教的視点から(おそらく)完全に分断された。つまり、この時期から現象のもととなる要因が数式などで議論され、宗教は数式に関与しないということになった。

 それは今現在でも引き継がれ、神の視点なしに、科学者が必死に数式を用いて現象を説明しようと日々努力している。神はいるというぼんやりとした前置きなしに、科学によって因果関係が示されるのは素晴らしいことだ。(結果論から導き出されたものに関しては神と同じではないのか、という意見については今回無視させていただきたい。)

 難解な数式や、高度な技術により飛躍的に発展した技術は、言うまでもなく人々に潤いをもたらした。科学者の手から生み出されたものを我々はなにも疑問も持たずに便利に利用している。A4で切り取られた用紙、電波時計、洗顔料、車、スマートフォン…これらを一から作れ、仕組みを説明しろと言われたらたいていの人ができないだろう。世にあふれたものはブラックボックスと化してしまった。

 使っているものの内部構造を理解していないのに、それらを信用して使っている我々は何を信じているのか?



 それこそ科学ではないだろうか。


 科学は正しいという前提があってわれわれはものを使用している。で、どの点が科学は宗教なのか。と長々しい前置きにうんざりして思う人もいると思うが、この、科学は宗教ではないか、という疑問を持たない考えは神ありきで成り立っている一般的な宗教と違いはないようにわたしは思える。

 疑いを持って自分で調べる、という行為をしないことには、科学は現在では宗教と同義なのだ。科学は神の存在証明のように、人知の及ばぬものではない。人為によって生み出されたものは、すべて理解できるとは言わないが、多少なり理解しやすいものだ。

 しかし、そういった中でエセ科学が蔓延し始めた。テレビ番組での取り上げ、動画アプリなどに流れる誇大された広告、インフルエンサーによって発信された案件商品など、インターネットが発達したおかげで蔓延スピードは明らかに早い。
 これは、はるか昔に疫病が流行った際に悪魔の仕業としたものに似てはいないだろうか。

 疫病はエセ科学、悪魔は発展した現代科学だ。
 詳しく理解もしていない現代科学の単語という、悪魔の指先から垂らされる糸に踊らされて疫病にかかってしまう人間があまりにも多い。

 それがいまや問題提起したとしても既にありふれているものだ。科学の飛躍的な発展は、エセ科学に現代科学という素晴らしい後ろ盾を与えてしまった。すなわち、知識のない人間が、エセ科学害悪業者を見抜けず、現代科学応用業者とし、信用しきって無駄金をつぎ込んでしまうのである。

 どうやったら回避できるのか。


 それは科学を疑うことだ。


 なぜ科学が宗教であると言っているのかはここまで読んでいただいている読者にはわかると思うが、科学教が一般に根付いていないのが大変危なく感じる。


 一昔前から科学と宗教はまた融合しているのだ。
 だからこそ、身の回りの科学を疑って、インチキなサイトや広告などではなく、とっつきにくくても大学等研究機関の出している論文に目を通しておくことも必要だと思う。









(しかし、エセ科学があることで経済が回っていることを考慮すると、そういった人間は一定数いなければならないのかもしれないと思えてしまうが、それはそう思うだけにとどめておきたい。)

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