女性という枷
近年、男女格差というものが問題視されているのは言うまでもない。男女格差をなくしていくための政策として様々なものが考案され、平等を目指す社会が生み出されている。
わたしは生物学的に女性に分類される人間だ。つまり、一昔前の社会では"弱者"とされる性別である。と、いってもなにも疑問に思わず、「そういう性別だ」と納得するであろう。しかし、ほんとうに"一昔前"の話なのだろうか。実際は、平等を目指す社会の動きがあるがために、今日でも"弱者"であると感じることが多い。一昔前の社会で格差がほぼなくなったというわけではないのだ。
なにがそうさせているのか。それは男女平等を推進するにあたって出てきた新しい言葉の影響が大きい。リケジョ、イクメン、女性のための〇〇(以前は男性の割合の高かった分野、仕事)などだ。
ちなみに、わたしは理系大学生で物理学科に属している。そのため、上記にある例のうち、リケジョというのは、生活していてよくつっかかる言葉だ。
リケジョ(理系女子)。そもそも、こういった言葉はなぜ存在するのだろうか?
それは、昔、女性の学ぶ場が少ないために学問に触れる機会がなく、しかも文系科目よりも(習得に)難しいので、女性率がとても低かったからだ。そこに時が経ち、次第に理系科目を専門として学ぶ女性が現れてくると、物珍しさ故に社会は集団に名前をつける。
社会において新しく生まれてくる名前というのは、他と違った特異なものであるから生まれてくる。それは当たり前のことだ。
わかりやすいものの例としてはスマホだと思う。スマートフォンが存在しなかったとき、今のスマホに当たるものはどう呼ばれていたか考えてほしい。それは、携帯(電話)だ。スマホ自体も"携帯"できる"電話"であるので、包含関係にあり、スマホは携帯の1つの種類にあたる。だから、スマートフォンを特別に携帯という括りから取り出して、スマホと呼ばなくてもいいのだ。だが、一般にはスマホはスマホ、スマホが出る以前の2つ折りタイプは携帯と呼ばれることが多い。これは、スマホというものが、2つ折り携帯電話が大部分を占めていた中で特異的存在であったからだ。
では、リケジョやイクメンと照らし合わせてみる。スマホと携帯の話と同じ視点から見てみると、リケジョとイクメンの両者は、スマホに該当する。つまり、現在において特異的な存在なのだ。特異的といってなにが問題なのだ、というのは少数が感じるかもしれない。確かにそうだ。別に言葉が生まれたところで、ただ、辞書の数行が増えるだけに過ぎない。しかし、少し言葉を変えてみよう。特異的存在は"異質的存在"なのだ。
異質ゆえに"普通"と区分され、言葉が生まれる。
これはある程度知られているかもしれないが、男女平等の進んだフィンランドではイクメンという単語は存在しない。それは、やはり"普通"だからだ。イクメンであることが普通なのではない。男女に依らず、両親が子供を育てるのが"普通"なのである。
大多数且つ、文化的に継続されているものに属していると、特異的なものとして扱われず、新たな名称は集団に与えられることはない。
こういう点で、苦しんでいる女性は少なくないと思う。男女平等を掲げた下で、異質であることを裏付ける言葉が与えられている。その行為がいかに生きづらさを助長させているか。
まだまだ平等は遠いようだ。