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夜中に読書をして詩を読む

本の感想文も三つ目ですので、
「読書記録」というマガジンを追加してみました。

しかしこちらに載せるのは書評ではないです。
その本を読んだ後に考えた、ただの断想です。

私は小説なり、映画なり、音楽なり。
作品を評価するのが苦手です。

といっても、
酷評するのは得意です。
映画にしても、小説にしても、
好きなものであればあるほど、悪口を言いたくなります。
かなり冴えた悪口を言える自信があります。
ずっとそれは私の性格が悪いからだと思っていたんですが、おそらくそうではないんですね。(性格に難があるのは事実ですが。)
作品も人も「酷評」するのは実は簡単なんです。
粗を見つけ出すのは簡単です。
誰にでもできること。
褒めるのには才能が必要です。
なぜ自分がそれを良いと思ったのかを、他人に分かるように説明するのは難しいです。私には(性格の問題というより)技術的に難しいようです。

だからここに本や映画、ドラマの感想を載せることはあっても、
褒めたり、貶したりすることはほとんどないと思います。

本題ですが、夜中にこちらの本を読み返していました。

中路啓太『ゴー・ホーム・クイックリー』

これは数年前に一度、読んだ本でした。

終戦後の昭和21年2月、内閣法制局の佐藤達夫は突然、憲法問題担当大臣に呼び出された。新憲法の日本政府案をGHQが拒否し、英語の草案を押し付けてきたという。その邦訳やGHQとの折衝を命じられた彼は、白洲次郎らと不眠不休で任務に当たる――。 現憲法の成立までを綿密に描く、熱き人間ドラマ。 今こそ読むべき「日本国憲法」誕生の物語。

『ゴー・ホーム・クイックリー』裏表紙より

GHQが渡してきた日本国憲法の草案は英文だったわけで、それを白洲次郎が頑張って日本語に訳したことは非常に有名です。
この本は、白洲次郎と一緒に頑張った佐藤達夫という官僚が主人公です。
何を頑張ったかというと、
日本国憲法は「アメリカに押し付けられた」憲法だったわけですけど、
それを訳す過程で、どうにか日本の主体性というか、主導権みたいなものを守ろうと。そういう頑張りでした。
そうやって寝る間も惜しんでめちゃくちゃ頑張った後に
「自己欺瞞」とか言われて反論できずにヘコんだり。

まあ細かいことは読んでくだされば分かると思います。
これは書評ではないんです。すみません。

私はこの本を読むたびに泣きそうになります。

この本を読むたびに実感することは、
やはり人間は頑張れば頑張るほどダサいということですね。
カッコよくいることは、それほど難しくありませんが、
カッコよくいることで守れるものは何もありません。

この『ゴー・ホーム・クイックリー』の冒頭から引用します。

戦争に負けたと知って、雅子(注:主人公の妻)は拳を叩いて悔しがり、泣いた。彼女の父は海軍少将だったから、日本の軍人が負けたことは、とても受け入れがたかったようだ。
佐藤が慰めようとして、「負けたものは、仕方があるまい」と言うと、「それでもあなたは日本の男か。情けない」となじってきた。
泣きぬれる妻を前に言葉をなくしてしまった。佐藤とて、負けたことは残念であったが、もはや日本は国力の限界に達しており、戦争を終わらせられてよかった、という思いのほうを強く抱いていた。
以前から、雅子は夫に「世のたいていの男衆は、あなたのようではない」と言って、呆れたり、笑ったりした。男というのは表で大酒を飲み、天下国家を声高に論じて、侮辱的な言葉を投げ掛けられれば激昂し、殴りあったりするものだというのだ。おそらくは、この雅子の男像は、主に彼女の父や、父のもとに集まる者たち、すなわち軍人たちの姿によって形成されたのだろう。
その男像からは、佐藤はずいぶんとずれている、と雅子は思うらしい。夫は四季折々の草花に見惚れるほかは、部屋にこもり、静かに本を読んでばかりいる。妻がいろいろと文句を言っても、まともに反論しようともせず、黙り込んでしまう。「私が男で、あなたが女だったらちょうどよかった」と言われたことすらあった。
俺だって、悔しいには悔しいのだ。日本が負けたことも、お前に責められたことも――。

『ゴー・ホーム・クイックリー』文春文庫pp.9-10より

この部分に出てくる「男」たちのように、
天下国家を声高に論じて、
侮辱的な言葉を投げ掛けられれば激昂し、
殴りあったりしていれば
国の未来を守れるなら、どれだけいいでしょうか?

しかしこのような「男」が守れるものは何もありません。
軍服を着た、パキッと綺麗な敬礼をする軍人サンがカッコよく見えるのが人の性ですが、本当に国を守ってくれたのは佐藤みたいな地味な官僚です。
戦争には負けましたが、
彼は精一杯の負け惜しみをしてくれました。
そのお陰で今の日本があります。
負け惜しみはダサいですが、仕方がないです。

感性に訴えるものは虚構です。
事実はいつも心地良くありません。

大事な問題で歯切れの悪いことを言うと、
「もっと勉強して下さい」と言われることがあります。
しかし重要な問題にしろ、
どうでもいい問題にしろ、
勉強すればするほど歯切れが悪くなるものです。
問い詰められれば問い詰められるほど、
喉まで出掛かる言葉があります。
「分かんない」
しかしこれを言ってしまうと終わりです。
相手には何も伝えられない。
だからどんなに複雑な問題でも「分かんない」とは言えません。
分かる範囲で頑張って話す必要があります。
粗探しをするのは簡単ですが、
粗がありつつも話すのは大変です。

私は優しい人じゃないですし、
本能のままに動けばアグレッシブなタイプです。
喧嘩腰のおかげで切り抜けたこともありますが、
そのぶん失敗が多いです。

誇り。自尊心。矜持。
それを持つことはそんなに難しくないです。
それを傷つける相手を雄々しく威嚇するのも難しくないです。
それで社会や未来を少しでも良くできるなら、これほど楽チンなことはないです。

真実はいつも長くて、長くて、
説明しきれないほどに長くて複雑だし、つまらないです。
真面目であることはダサいです。
カッコよさは虚飾によって生まれます。

私は「勉強して下さい」と言われることが嫌いだし、勉強することも嫌いです。
「勉強して下さい」と子供に言うことも嫌いです。
勉強して幸せになることはあまりないからです。
勉強すればするほど世界が明瞭になるのは途中まで。
その先はどんどんワケが分からなくなり、霧は濃くなっていくばかり。
それで分かったことを披露しても褒めてくれる人は少ないです。
理解してくれる人が少ないし、興味がある人も少ないです。

私は「勉強」を通り越して「研究」までしている人たちが怖いです。
自分一人で、未開の海原を探検するのは独特の楽しみかもしれませんが、
それで新大陸を発見しても同じ船に乗っている人はほぼいません。
大抵の場合は一人で船旅です。
ずっと孤独だと思います。
誠実であればあるほど孤独になっていきます。
もし同じ船にたくさんの人が乗っているなら、
それはちょうど良いところで勉強をやめたからです。
でもそのほうが幸せだし、
子供たちには幸せであってほしいので、
勉強は適当にやってほしいと思います。
面倒臭いことは大人がやるべきです。

子供は幸せでいることが一番ですが、大人には責任があります。
人を守れるのは一人で船旅ができる人です。
そういう人はカッコよくもないし、
人気者でもない。
そういう人になりたいですか?と聞かれると、
素直にウンとは言えない自分がいます。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ 
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ

宮沢賢治『雨ニモ負ケズ』

「日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ
褒められもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい」

デクノボーというのは「役立たず」という意味。
関西風にいうと、
「あの人あほちゃうか」
みたいな感じです。

宮沢賢治の
「そういうものに 私はなりたい」
というのは子供の頃は全く理解できませんでした。
こんなダサい人間になりたいとは酔狂です。
でも今はほんの少し分かります。
というより涙が出ます。

これほど願うことが難しい願いがあるでしょうか?
私にはまだ無理です。
欲まみれだし、よく怒(いか)るし、
いつもうるさく苛々しています。
寒さの夏にオロオロ歩きたくないし、
みんなにカッコイイと言われたいです。
でも、みんなにデクノボーと呼ばれること。それが大人が幸せになる唯一の道であるように思います。

(いつもハイテンションなおバカ構文なのに、
急に賢者モードみたいになっててすみません。
寒い夜はポエムを綴りたくなるんです…😓)

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