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(G)I-DLEにはスジンがいた。

世の中には二種類の人間がいる。
(G)I-DLEを愛する者と、そうでない者。

と言いたいところだが。
世の中はそんな単純ではない。

実は(G)I-DLEのファンにも二種類いるのである。
5人の(G)I-DLEを愛する者と、
6人の(G)I-DLEを愛する者。
同じ宗教を信仰していても、宗派が違うようなものだ。

私は6人の(G)I-DLEも好きだし、
5人の(G)I-DLEも好きという、
コウモリみたいな人間であるが、
なぜ私がコウモリなのか分かってほしい。

元始、スジンは(G)I-DLEの花であった。

元始、スジンは(G)I-DLEの花であった。
ほかのメンバーが茎であり根であり、スジンは花であった。

どちらが優れているというのではない。
スジンは他のメンバーと違った。

スジンは他のメンバーが持っているたくましさを持っていなかった。
パワフルな歌声も、
はっきり意見を言う性格も、
そこはかとない生命力も持っていなかった。

スジンが持っていたのは涼しげな歌声と、
ほろりとこぼれ落ちてしまいそうな泣きぼくろだけだった。

スジンは(G)I-DLEで唯一はかない存在であり、
そして本当にいなくなってしまった。

スジンがいない(G)I-DLEは、さらに大きな木になった。
スジンがいなくてもTOMBOYはヒットしたし、
スジンがいなくてもNxdeはヒットした。(Nxdeには「いた」説もあるが。)

しかしここで問題。
スジンがいなくてもヒットした曲たちは、
スジンがいてもヒットしただろうか?

おそらくスジンがいても
魅力が足されることはあれど、
差し引かれることはないだろう。
TOMBOYを踊るスジンも、
Nxdeのセンターを張るスジンも、
Queencardを踊るスジンも全て想像できる。
想像の中でスジンはこれらの楽曲に馴染む。

しかし、誰もが内心では分かっている。
(G)I-DLEはスジンを失ったのに成功したのではない。
スジンを失ったから成功したのだと。

スジンの脱退がなければTOMBOYもNxdeも生まれなかったかもしれない。
最も明確に「生まれなかった」と断言できる曲は『Revenge』だけだが、
おそらく多くの楽曲が、「スジンを失った(G)I-DLE」から生まれたはずだ。

喪失と怒りこそが、新しい(G)I-DLEの音楽を支えるエンジンとなったはずだ。

それでもやっぱりスジンを戻してあげたい。
TOMBOYを踊るスジンが見たい。
だって(G)I-DLEは6人で出発したから。
出発したままの形でゴールさせてあげたい。

そんな中で今年のワールドツアー、
(G)I-DLEのコンサートを見て、私はふと思った。
『Super Lady』のあと、
『LATATA』『Revenge』『VILLAIN DIES』
と続いた、あの公演を見て気づいた。

(G)I-DLEは5人になったんじゃない。
スジンは今でも(G)I-DLEの6人目だ。
でもスジンはステージにいない。
スジンはステージにいないことで、
今の(G)I-DLEを作っているのだ。

(G)I-DLEは全てを持っている。
地位、名誉、人気。
数々のヒット曲。メンバーの友情。
全てを手に入れた(G)I-DLEが、唯一持っていないものがスジンだ。

スジンがいないということ。
一人、足りないということ。
どれだけ上り詰めても、仲間が揃っていないということ。

欠乏こそが(G)I-DLEを完成させる、最後のピース。

足りないからこんなにも美しいんだ。
こんなにも完璧なんだ。こんなにも人を惹きつけるんだ。

(G)I-DLEのゴールが、決して手の届かない、
永遠の先にあることを願って。
(それはそれとして、6人には皆、一番幸せな道を選んでもらいたいけどね。)


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