◆怖い体験 備忘録╱第19話 螺旋階段
一時期、とある事業を推進するための事務所の管理を任されていたことがありました。
主な仕事は電話応対と企画書などの書類作成、外部の人とこちらのプロジェクトチームの人員との折衝みたいなよくわからないポジションで、わたしの他に常駐は2人という小さな事務所でしたが、初めて役職をつけられた仕事に、意欲は漲っていました。
事務所は雑居ビルの一階にあり、元々は美容室だった場所を改装したせいか、全体的に白基調のオシャレな物件で、一番特徴的だったのは、入り口に入ってすぐ右側の室内に設置されていた短い螺旋階段です。
大きなショーウィンドウからもはっきり見て取れるそれは、よく「ここは何屋さんなの?」とドアを開ける無用の通行人を誘発する設備でもありましたが、陽当たりもよく可愛らしかったため、誰もいないお昼休みなどは、わたしはよくそこへ座って昼食を食べたりしていたものです。
さて、その日もわたしは休日出勤で、1人きりの事務所で書類を作っていました。
その物件では特に怖い気配を感じたこともなかったので、残業や休日出勤も割合平気でした。
だから、その日も適当なところまで仕事が進んだら帰ろうかなーと、非常にのんびり気分で働いていたのです。
あれは、お昼もだいぶ過ぎた3時頃でしたでしょうか。
書類に煮詰まったわたしは、日光を浴びながらタバコでも吸って頭をリセットしようと、腰を上げました。
当時はまだそれほど分煙などにもうるさくなかった時代です。
螺旋階段を登ると2階には広い空きスペースがあり、窓を開けてタバコを吸うと大変気持ち良かったので、わたしはいつもそこでタバコを吸っていました。
なので、いつも通りそこへ行こうと螺旋階段に近づいた、刹那。
何かの気配に気がついて、わたしはぎょっと身を固くしました。
螺旋階段の一番上の段。
階段は2階の床に続いているため、一部しか見えないのですが、そこに誰かのスニーカーが見えました。
白ベースに、有名メーカーのラインがデザインされた大きめのスニーカー。
一瞬、男性社員がそこに置き忘れて帰ったのかと思い、近寄ってみようとしたところ、わたしはそれにカーキ色のパンツが続いていることに気がつきます。
誰かが、立っている。
誰もいないはずの、事務所に。
わたしは空手の有段者ですが、さすがに自分1人の事務所、男性の侵入者かと思うと背筋がゾッと凍りつきました。
慌てて入り口に駆け寄って「誰!?」と声を出しましたが、答える声はありません。
そこで、そーっと階上を見上げると、わたしは更に異様なことに気がついて、息を呑みました。
スニーカーを履いたカーキ色のパンツは、膝のあたりからグラデーションになっているようにボヤけ、そこから上の身体がないのです。
その瞬間、携帯がけたたましく鳴り出しました。
飛び上がるほど驚きましたが、着信を見ると母からです。
仕事中は滅多に連絡を寄越さない母からの電話。とりあえずすぐに事務所から出られるよう走ってカバンを手に取りながら電話に出ると、もしもし、と圧し殺したような母の声です。
さっきの足のこともあるので「何!?」と些かキレぎみに応対すると、母は「ねえ、あんた、○○お兄ちゃんって知ってたっけ?」と、あまり面識のない親戚の名前を口にしました。
その人とは、本当に冠婚葬祭でしか顔を合わせた記憶がありません。
言葉を交わした記憶も、ほんの数えるほど。
ただ、気の弱そうな、優しそうな人で、話すときもいつも遠慮がちに言葉を選びながら、やんわりと微笑んで話す佇まいが印象的でした。
眼鏡で真面目そうな彼の顔を思い浮かべながら「知ってるけど、それが何!?」と答えると、母はぽつりと「自殺したんだって」と言いました。
かなりの衝撃がありましたが、遠いところに住んでいて、冠婚葬祭以外は交流のない親戚。上手いこと言葉は出てきません。
母からしても確か、はとこだか…又いとこだか……
そんな電話をわざわざわたしにかけて来て、よくわからないやりきれない気持ちを味わわせるような関係性の人とは思えませんでした。
でも、母にしても何らかの衝撃があって、とりあえず長女のわたしに吐き出したかったのかも知れません。
とりあえず「そっか…」と応じ、お香典のことや、葬儀をどうしようかなどと話す母に何か返事をし、電話を切りました。
ちらりと見上げた螺旋階段には、もう誰の姿もありませんでした。
あの時見たのが親戚だったのかどうか、今もって謎のままです。
でも、違うとしたら、あまりにもタイミングが良すぎる符合ですよね。
わたしの霊感は中途半端なので、こういう時「今のは誰々で…こんなことを言っていて…」などは毎度まったく解らないのです。
なので、今回のお話もオチはありません。
それでは、このたびはこの辺で。
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