雨と、折り紙と、お寿司
夫が
「仕事をやめようと思う」
と言った。
ひどい雨が降っている。こちらは雨季というシーズンで、しらばく雨が続くらしい。ここ数日はスコールが降り止まないような、呆気にとられるほどの雨が降っていた。
今朝も雨が降っていた。そして夫は朝、起きてこなかった。日に日に朝起きられなくなっているなとは思っていたが、ついに今日は起きることができなくなっていた。
それでも夫は“ちゃんと”上司に連絡し、なんとか仕事を休んだ。と思ったが仕事は休めず、休んでは仕事をし、仕事をしては休み、というような1日を過ごしていた。
それくらいきつい状況にあった。
夕方、雨が止んだ。止んだと思って子どもと一緒に少し外に出た。まだ少し、霧雨のような、見えないけれど肌には感じる雨が降っていた。子どもは「わからないよ、降ってないでしょ」と言った。そして嬉しそうにシャボン玉を飛ばした。いつもよりシャボン玉がたくさん飛んで、いつもより割れるのが遅かった。
夜、子どもが寝静まったあと、夫がリビングをうろうろして、子どもが置きっぱなしにしていた折り紙を見つけた。1枚ごとにいろんな柄がついている可愛らしい折り紙だ。
「鶴、折ってみる?」
夫が言った。
「鶴、折ってみようか。」
私が答えた。
夫は私に淡いピンクの花柄の折り紙を1枚くれた。夫は少し暗い青みがかった模様の折り紙を折り始めた。
角を合わせ、三角にし、ぐっと押さえ、すーっと指で折り紙を折る。
「折り紙、好きじゃなかったけど、広島に住んでいたことがあるからよく折っていたなぁ、鶴。」
夫が言う。
三角の角を合わせ、またすーっと折る。
「私は小さい頃から絵を描くのが好きだったけど、小さい頃から好きなことってある?」
私が聞く。
三角の袋を開き、四角にしていく。つまずくことが多いこの第一関門、私は意外とこの作業が好き。
「小さい頃か、特になかったかなぁ。」
「キャンプは?」
私が思いつく夫の趣味といえばバスケとキャンプだ。
「初めてキャンプに行ったのは小学生だったよ。でもその1回きり。そのあとは釣りの方がよく行ってたなぁ。釣りでキャンプの道具使うことはあったよ。釣った魚食べる時とか。キャンプは高3くらいからハマって、今流行ってるみたいな映えとかそんなんじゃなく、サバイバルみたいなとにかくアウトドアで生きるって感じが好きなんだよ。」
「そうなんだ、知らなかった。キャンプ好きになったの結構大人になってからなんだね。」
四角になった折り紙の角を真ん中に合わせるように折る。一見無駄にも思えるこのひと手間が次の開く段階で役に立つ。そういう作業こそ大事にするべき、なんて折り紙から哲学を得た気になる。
開いてから、脚と頭になる部分を細く折り、一気に鶴の形へと仕上げる。最後に羽を広げ、形を整えて完成。
夫の方を見ると、ちょうど開いたところだった。しかしそこで少し躓いた。脚と頭の細くする部分がわからなくなったようだった。
私は黙って見守った。
これは子育てをしていて学んだことなのだが、相手が助けを求めるまでは声援も手助けも不要で、じっと見守る、ただそれが大事らしい。
わかっていてもじっと見守るのは難しい。日々意識し、ぐっと堪えなければ手でも口でも出したくなる。知らなければ冷たく見えるのだろうか、と思ったこともあるので、できる限り穏やかな顔で見守るようにしている。助けを求められれば、優しくこたえ、成し遂げた時にはひと呼吸置いて、あたたかな声をかける。
私が育児で大切にしていることだ。
夫は、試行錯誤し、あぁこうか!などと言いながらやっているが、なかなか鶴は完成しない。あまりにもどかしすぎて
「教えてもいい?」
と言ってしまった。
「もうちょっとやらせて。」
笑いながらも真剣な顔で夫が答えた。あぁ、やっぱり口出すんじゃなかったと少し後悔した。私はまた口をつぐみ、静かに見守った。
ようやく鶴は完成した。あっちこっちに折ったので夫は
「しわくちゃになっちゃったな。」
と言ったが、私のと並べてみてもそんなに違いはわからなかった。2つの綺麗な模様の鶴が並ぶと、まるで旅館の部屋でちょこんと飾られているような、すました雰囲気があった。
「やっぱり何かを作るの好きだなぁ。集中して、じっと。それで俺はマイペースなんだな。自分のペースでいるのが好きだ。職人にでもなればよかったかなぁ。」
夫が2羽の鶴を見ながら言った。
「うんうん。マイペースなのはそうだね。それがいいところだよ。何かを作るのも昔から好きだよね。マイペースに作りたいものを作って、でも他人からは何も言われたくなくて、完成したものがどうであれ自分が良ければ良いって思えるタイプだよね。」
私が思わず夫の夫らしいところを言うと
「そうなんだよなぁ。」
と夫は笑っていた。
それから少しいろんな話をして穏やかな時間を過ごした。
夫は
「まぁ今すぐに何かを決めるってことはないと思うから、しばらく考え続けるよ。心配かけて、ごめんね。」
と言った。
私は
「ううん、話、聞くくらいしかできないから」
とこたえた。そう答えながらも、もっとできることはないのかなと思案を巡らせた。
きっと今の夫に、どんな提案をしてもしっくり来ないと思う。夫が自分で探し、自分で「これだ!」と見つけるまで、この旅は続く。苦しいかもしれない、辛いかもしれない、そんな夫をそばで見守る私に何ができるのだろうか。
少し考えて、私は私で、自分の中にあるものを探そう、と思った。
夫と一緒に心のロックを外していこうと考えた。
私たちは生きていく中で無意識に自分の思考に制限をかけている。やりたいことがあっても、いろんな理由をつけて「できない」と判断を下している。現実を生きていくためには仕方のないことだ。でもあまりにも「できない」というロックをかけすぎて、本当に自分がやりたいことはなんなのか、わからなくなってしまうこともある。きっと夫はそんな状態だ。だから、まずはやりたいことを思い出す練習をしよう、と思った。
「やりたいと思っていたけれど、できないと勝手に決めて諦めていたこと」を探す。これをしばらく自分のテーマにすることにした。夫にも「私はこれを考えるね!」と宣言した。
キッチンへ行き、夕飯の片付けをしながら考える。やりたい、と思っていたことか。やりたいけど、やっていないこと。それだとたくさんあるな。ここ数ヶ月、宙ぶらりんで過ごしていた私はある意味自分と向き合い、やりたいことはなんなのか問い続けていたようなところもある。
じゃあ、もし、神様が来て
「1つだけ、なりたい自分、やりたいこと、何か叶えてあげましょう」
と言ったらどうする?と考え始めた。
散らかったキッチンを見ながら、自分に問いかける。
「インスタで見るようなオシャレな家に住みたい?」NO
「大富豪になって優雅に暮らしたい?」NO
「マイホームがほしい?」これはYESかな。
どちらかと言うと「定住したい場所を見つけたい」かな。
生まれてからずっと転勤族の私は一ヶ所に定住することに憧れがある。定住することへの憧れというより、ずっとそこで暮らしたいと思える場所に出会えることへの憧れかもしれない。
そう、憧れているから自分で叶えたいと思っている。だから神様にお願いしたいこと?NOだ。
だんだんわからなくなってきた。
一旦考えるのをやめて家事に没頭する。小さいお皿、小さいお皿、大きいボウル、コップ、コップ、グラス・・・。
勉強、したいな、と思った。
また大学に行って勉強したい。そうだ、そんなこと思っていたな。
社会学?言語学?はっきりとはわからないが、大学時代には辿り着かなかった自分の知的好奇心を満たしたい。それからコーチングの勉強もしてみたい。おもしろかったら資格もとりたい。
どちらもあまりに時間もお金もかかること。やりたいけど諦めていたことだ。その割にはそれに関する本を読んだり、自分から情報収集をしているわけではないなとも気付いた。きっと心にロックをかけてしまったから、やりたいと思っていたことすら忘れてしまったのだろう。
私にとって1番の贅沢はオシャレをすることでも、素敵な家に住むことでもない。知識を得ることだ。そう思うと心がスッとした。ちょっとかっこつけているみたいだけど、きっとこれは本心だ。義務教育の“勉強”は嫌いだったけど、自分が知りたいことを学ぶのは大好きだ。そしてそれは苦痛ではない。遠回りした看護学生時代に知った新しい自分の一面だ。
でもそれが、神様に叶えてもらうたった1つのことでいい?と思うとまだ少し決断に迷いがある。お金や時間ができたら自分でも叶えられるかもしれないしな・・・。なかなか難しい問いを立ててしまったな。
そんな時、むくむくとある欲が湧いてきた。心のロックが外れている今、私は欲に忠実だ。たった今、私が、心から望んでいるのは、、、
お寿司が食べたい。
何よりも大好きなお寿司。しかし海外ゆえ自由に食べれない日々。そうだ、もうこれしかない!神様、とろけるような光り輝くお寿司をここに出してください・・・!!!
そんな都合のいい神様はいないし、お寿司は現れなかった。
お寿司は現れなかったけれど、こんな些細なことでも自分のやりたいことは大切にしたい。どうせできないからって諦めたくない。夫に言ったら笑われるかな、呆れられるかな。でもこんな小さなことだって、やりたいことは大切にしていいんだよって伝えられたらいいな。やりたいことがわからなくなるまで、心も体もボロボロにしないでいいんだよって抱きしめられたらいいな。そうやって自分のやりたいことも夫のやりたいことも大切にして生きていきたい。
鳥の鶴は生涯同じペアで生きていくらしい。毎年だいたい同じところに巣を作り、同じところで繁殖をする。2羽の折り鶴を見ながら、そんなことを思い出す。
いつになるかわからないけれど、夫が自分の道を切り開き、何か自分にしかない大切なものを見つけられますように。私にできるのはそばでずっと支えるくらいかな。ずっと、ずっと。
外を見ると、日中の雨が嘘のように、静かだった。
明日は少し晴れるといいな。
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