碧い港のファンタジア《6》花波(連作短編)
《6》花波
―その瞳は、海を宿す。光と少女のものがたり―
***
波間に薔薇の花びらが舞い散る。周囲を圧し、紺碧に渦巻く海面を割って、巨大な船体が入港する。
岸壁で迎える楽隊の音、人の波。リボンをたなびかせた花束が次々と海に投げ込まれる。楽隊の音がひときわ高くなった。
今日は《プリマヴェーラの日》と呼ばれる春祭りだ。プリマヴェーラとは春の女神の名前だが、彼女はまた海の守りも司っている。海を生活の場とする船乗りたちは、春になると彼女の加護を求めて海に花を捧げてきた。その素朴な慣わしが、いつしか港をあげての盛大な祭りとなった。
良き船旅をことほぐ祭りとあって、この機会に寄港する外国船も多い。なかでも威厳と優美さを兼ね備えた姿から「海の女王」と呼ばれる大型船の来港は名物となっており、年に一度の特別な客人を迎える港は華やぎに満ちていた。
アンテもこの船を見に来ていた。生まれ育ったこの町から出たことのないアンテだけれど、大きな船を見ていると、自分の本当の故郷は遠い海の彼方にあるような気がしてくる。青い波を越え、大海原も越えたどこかにある小さな村。見知らぬ土地のはずだけれど、なにかむしょうに懐かしい。丘の中腹に並ぶ小さな家々はささやかな畑を備えている。晴れた日には中庭で若い母親が洗濯物を干し、そのスカートの裾を幼い子どもがしっかりと握っている。その子は成長して船乗りとなり、世界の海を駆け巡る。そしてこの港を訪れる…。
はしけの欄干に頬杖をついて、アンテはあてどなく浮かんでくる夢想を追っていた。
海面がきらめいている。「海の女王」のマストに掲げられた船旗が潮風に翻り、甲板では船員たちがあわただしく立ち働いている。照り付ける陽射しのもと、デッキブラシで甲板を洗う者、声を掛け合ってロープをたぐる者。
その動きに乱れがあった。船員たちが顔を上げ、上空を指さしている。その指先をたどると、帆桁に結び付けられた帆がほどけかかり、風にはためいている。その時、ひとりの船員が群れを抜け出したかと思うと、するするとマストに登り始めた。軽やかな身のこなしが目につく。細身の身体つきからいって年の頃はアンテと同じぐらいだろうか。あっという間に帆桁にたどり着くと、手際よく帆を巻き上げていく。帆をロープで帆桁に結び直すと船員はふと顔を上げた。
その刹那、彼の視線はアンテのそれとぶつかり合った。いや、アンテがそう感じただけかもしれない。この距離では細かい表情など分かるはずもない。だが、目が合ったと感じた瞬間、まだ少年らしさを残す船員とアンテの間には何かが通い合った気がした。
もう一度確かめようとした瞬間、目の前をウミネコの群がよぎった。羽ばたきながら甲高く鳴き交わす賑やかな一団が通り過ぎると、マストにはもう彼の姿はなかった。
甲板に目を凝らしてみても、多くの船員に紛れてもう見分けはつかない。目が合ったと感じたのもやはり気のせいだろう。でも、もし運命のどこかがほんの少しでも違っていたら、あの少年のように自分も一生を船で過ごしていたかもしれない。
***
アンテは欄干を離れ、広場の方へ歩き出した。届いた船荷をすぐに運び込めるよう、岸壁に隣接して煉瓦造りの倉庫が並んでいる。その一角が広場になっているのだ。広場は季節ごとにさまざまな催しものでにぎわう。プリマヴェーラの日である今日は、色とりどりのテントが張られて人々が列を作っている。
行き交う人々の手には小さなグラスが握られており、薄紅色の液体が光を弾く。祭りの名物である薔薇の酒だ。店によって味も香りも異なるので、皆お気に入りの一杯を楽しんでいる。子どもには薔薇の香りを付けた焼き菓子が振舞われる。アンテも薔薇の酒を求めた。ひと口含むと強い芳香が身体中を充たす。花の香りに包まれながら広場を歩く。
広場には電飾を点した回転木馬も出ていた。移動式の小ぶりなものだ。柵の入り口が開くと、列をなした子どもたちがなだれ込み、お目当ての馬に駆け寄る。あぶみに足が届かない小さな子は、係の者に抱きかかえられてまたがる。子どもたちの顔には一様に、大きな期待と微かな緊張の色が浮かんでいる。全員が馬を選び終わったのを確認して、係がブザーが鳴らすと、いっせいに電飾が輝き、古めかしいオルゴールの響きに乗って回転が始まる。馬にまたがった子どもたちは得意げな顔で、柵の向こうで見守る両親たちに手を振っている。
幼い子どもたちの中にひとりだけ、やや年かさの少女の姿が見えた。支柱に貫かれた馬たちが上下するたびに、白い横顔がちらちらと見える。あの、波打つ金髪には見覚えがある。耳には大粒の真珠が光り、まとっているのはやはり桃色のワンピースである。
「よっぽど回転木馬が好きなんだな」
すまし顔で馬にまたがっている彼女の姿に、アンテはふいにほほえましさを感じた。お祭りの日だけの特別な回転木馬を、彼女はきっと海の底で楽しみにしていたに違いない。
ゆっくりとオルゴールが終わり、馬たちも停まった。子どもたちは両親のもとへ駆け出す。ひとときの乗馬の興奮さめやらぬ子どもたちとそれを迎える親たちの向こうに、汐風に金髪を揺らしながら悠々と歩き去る彼女の後姿が見えた。後姿はさりげなく人波を抜け、ひと気の少ない海際に向かっていく。案の定だ。このままその姿を目で追っていれば、きっとこの前のように、つるりと海に滑り込むことだろう。言葉こそ交わしてはいないが、思わぬ知己を見つけてアンテの心は温かくなった。やさしい波に揺られながら見る、今夜の彼女の夢は、オルゴールの音色に包まれるだろう。
「また遊びにおいで」
アンテはつぶやき、軽やかに裾を揺らしながら遠ざかる桃色のワンピースを見送った。彼女が大好きな回転木馬を楽しめたのならよかった。
突如大音量でファンファーレが響き、クラッカーの紙吹雪が弾けた。春の女神のパレードが始まったのだ。隊列を先導するのは「花のおとめ」と呼ばれる少女たちだ。薄紅色の衣装をまとったおとめたちは、薔薇の花びらを振りまきながら歩んでいく。次には楽隊だ。船員服を模した白と紺の衣装に金色のモールが光る。
ひときわ大きな歓声に包まれて、帆船を模したフロートが現れた。フロートに設けられた玉座には、純白のドレスをまとった一人の少女が座を占めている。その年に十六歳を迎えた娘たちの中から選ばれた者が、春の女神の名代をつとめるのだ。少女の花冠は純白の薔薇だけでつくられている。数多ある薔薇の中でも、純白の波しぶきを思わせる白薔薇こそ海の女神にふさわしい花とされているからだ。
「フローラ!」
「こっち向いて!」
人々の呼びかけに応えて少女は輝くような笑顔をこぼす。豪華な衣装に風になびく美しい髪、薔薇色の頬、しかし見る者にもっとも強い印象を残すのは明るく輝く彼女の瞳だった。
見守る観衆からため息が漏れる。
「やっぱり今年はフローラで決まりだったね」
「小さい時から水際立っていたけれど、特に今日は眩しいぐらいだわ」
賑やかなマーチの音や人々の歓声はリボンのように交差して空高く昇っていく。見上げた空はどこまでも深く、その涯てには海のような紺碧をも透かせているようだ。こんな日に、フローラは決まってある人のことを思い出す。幼かった自分をやさしく包み込んだその声の響きを。一緒に見た海の色を。
それはやはりプリマヴェーラの日だった。
まだ幼かったフローラは、せがんで買ってもらった風船のひもをうっかり手放してしまったのだ。つないでいたママの手を振り切り、ごった返す大人たちの足元を潜り抜け、フローラは夢中で風船を追いかけた。
振り向きもせずひたすら走り続けたフローラは、ふと気づくと知らない場所にいた。雑草の生い茂る原っぱに、古い倉庫がぽつんと立っている。おだやかな波音が響くだけの静かな場所で、人影は見えない。いつもは一緒にいてくれる犬のトトもいない。
フローラは急に心細くなった。思わず独り言がもれる。
「ここはどこ?」
倉庫の扉がわずかに開いていた。その隙間から入り込む。倉庫の中は薄暗く冷え冷えとしている。辺りを見回し、ついに声を掛けた。
「誰もいないの?」
ガタリと音がして黒い影が現れた。
身をすくませるフローラの前に現れたのは、彼女より少し年長の少年だった。そのたたずまいが、よく遊んでもらう従兄にどこか似ていたので、フローラは少し安心した。
少年の方も突然現れたフローラの姿に驚いていたようすだったが、ややあってためらいがちに声を掛けた。
「どうしたの、こんなところに」
「風船を追いかけていたの。そうしたら…。どうしよう。トトもいない」
それまで必死にこらえていた涙が、言葉に出したとたんこぼれ落ちた。真珠のようなしずくがつぎつぎと頬を滑り落ちていく。
「そうか、迷子になっちゃったんだね」
少年はしゃがみこんでやさしくフローラの顔を覗き込んだ。
「泣かないで、だいじょうぶだから。すぐにパパとママが迎えに来てくれるよ」
だがあふれ出した涙は止まらない。涙を湛えて見上げたフローラの瞳はキラキラと揺れ、そう、ちょうど――
「海の色だ」
少年の口から言葉がこぼれ落ちた。
「うみ?」
意外な言葉に、フローラは思わず少年を見つめた。
「そう。海はね、毎日色が変わるんだ。お天気がよければ明るい青だし、雨の日には暗い灰色にもなる。季節によっても全然ちがう。そして今日の海の色は、きみの瞳とおんなじなんだ」
「……うみ、見たい」
「いいよ、ほら、あそこからよく見えるんだ」
少年が示したのは、建物の奥に小さく開いた窓だった。幼いフローラはつま先立ちをしても届かない。
少年がやさしく抱え上げてくれて、目の前に一気に海が広がった。
青空を映したような明るい水色に、透明な緑色が溶け込んで、陽射しにまばゆくきらめいている。なだらかな海面がうねり、一瞬、深みのある藍色に変わると、そこから銀色に泡立つ波が生まれた。
ほの暗い建物のなかから見る海は、額縁に入ったまま動き続ける不思議な絵のようにも見える。息をつめたまま海を見つめるフローラの瞳にさざ波の光が映り込む。
ややあって、床に降ろされたフローラはふーっとため息をついた。
「あれがわたしの瞳の色なのね」
少年がうなづくと、フローラはまつげに雫を宿しながらにっこりと笑った。
その時、遠くから犬の吠える声が近づいてきた。
「トト!」
フローラが振り向くと同時に、開けっ放しの入り口から茶色いむく犬が飛び込んできて、フローラの頬をぺろぺろとなめた。
「その子がトトなんだね。さあ、パパとママを迎えに行こう」
少年は微笑んだ。もう大丈夫。
陽炎の揺れる草地の先には、彼女の名を呼ぶパパとママの姿が見えてきた。
「さ、気を付けてお帰りね」
「うん」
フローラはこっくりとうなづき、走り出そうとして、急に立ち止まった。斜めに掛けたポシェットをさぐり、なにかをつかみ出す。少年のもとまで駆け戻ると
「これ、あげる」
少年の掌に載せられたのは薔薇をかたどったお菓子だった。フローラは少年を見上げると、満開の笑顔を咲かせた。
それからフローラは海に心惹かれるようになった。いつしか春と海の女神にもあこがれるようになった。海の記憶の中にはあの人がいるからだ。面影はおぼろげになったけれど、やさしい声は覚えている。
「海の色だね」
そう言ってくれた声のことを。
そして今日、フローラは夢を叶えてここにいる。フローラは再び青空を見上げた。海から一陣の風が吹き、薔薇の白い花びらが波しぶきのように天高く舞い上がった。
今日ばかりは、何の憂いもない女神の日。皆に幸いが降り注ぎますように。
華やかな楽隊の音はまだ続いている。
《完》
「碧い港のファンタジア」 全8話(連作短編)
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