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バルコの航海日誌 Ⅲ◆香料図書館《5》

Ⅲ◆香料図書館

《5.最後の壜》


「ぼくも香辛料なんです」という少年の言葉を聞いても、バルコに驚きはなかった。図書館の入り口で声を掛けられた時から、少年にはどこか人間離れした雰囲気を感じていたのだ。それに彼が身体を動かすたびに、あたりには馨しい香りがふわりと漂った。その香りは甘やかで、それでいて樹木の渋さと辛みを帯びたような……。

「そうか。じゃあ、君は何の香辛料なの」

少年の動きがとまった。赤みのまさった褐色の瞳がぎこちなく宙をさまよう。しかしそれもほんの一瞬のことで、少年は前にもまして強い眼差しでまっすぐにバルコを見返した。

「知らないんです。ぼくは、自分がどこから来て、誰なのかを知らない」「そうだったんだね、」
思いがけない答えに、掛ける言葉を探しているバルコに、少年はたたみかけるように続けた。

「でも、別に気にしてなんかいません。故郷なんて知らなくても困りはしないし、そのおかげで、ぼくはこうして司書という特別な役職を得られているのですから」
そう言いながらも、少年は視線を逸らした。視線の先には書架がある。そこには、香辛料たちの帰り家ともいうべき壜が立ち並んでいた。
バルコの視線が自分に注がれていることに気づいた少年は、気まずそうに書架から視線を外した。

「名前を失い、戻る壜のない香辛料は、ここで皆を見守る役割を与えられるのです。誰にも、何にも縛られない自由な立場で、ぼくにはこれが性に合っているんです」
そう言いながらも強い語気とはうらはらに、少年は自分の言葉を信じていないようだった。

「きみが、もし、よかったら」
バルコは慎重に言葉をえらびつつ声を掛けた。
「ぼくと一緒に君の生まれを調べてみるというのはどうかな」
少年は驚いたようだった。
「なぜそんなことに興味を持つのですか」

「ぼく自身も、遠くふるさとを離れて旅を続けているからさ。いつもは寂しく思ったりなんかしないんだけど、でも時々ふと、故郷のいろいろなことをもっとよく見たり覚えたりしておけば良かった、と思う時があるのさ」
「……ほんとうは、前に自分でも調べてみたことはあるんです。でも、なにも思いだせなかった」
「自分じゃ分からないこともあるさ。ふたりで考えれば、何か分かることもあるかもしれない。でも、きみがいやだったらもちろんいいんだ」

少年の返事はない。バルコは自分だけ先走って余計なことを口にしたかと緊張した。虚空に沈黙が浮かび、空気が固くなる。少年は自分のつま先をもじもじと眺めていた。そしてぽつりと呟いた。
「いやじゃない」

バルコはふうっと息を吐いた。
「じゃあ、さっそく調べてみようよ。ここには“本物の本”もたくさんあるんだからさ」

ふたりはさっそく館内の書架をめぐり、書名に『香辛料』や『世界の産物』といった言葉が入っている書物をありったけかき集めると、それらを抱えて書見台に戻った。積み重なった本を上から順に調べていく。大人用の書見台は少年の背丈には少し高く、ページをめくるバルコの手元を少年は背伸びするようにして覗き込んだ。バルコはページをめくりつつ、記憶の鍵になりそうな箇所を見つけると声に出して読み上げる。

「――。どう」
「違う。何も思いださない」
「――は?」
少年はかぶりを振る。お役御免となった本たちが、床にうずたかく積みあがっていく。
調査はいっこうにはかどらないが、ふたり額を寄せながら書物を読み進めていくうちに、少年は胸の内側に温かいものが湧いてくるのを感じた。

バルコはちょうど百科事典の『香辛料』の項目を頭から読み上げ始めたところだった。バルコの声を遠くに聴きつつ、少年は眼を閉じた。もうずっと、長いこと忘れていたもの。遠い昔にも、こうして誰かと時を過ごしたことがあったような気がする。 

まぶたの裏に浮かんでくるのはどこかの食卓の光景だ。ささやかなランプの下に家族が集まっている。テーブルの一角に、ランプの光を集めて輝く丸いものがある。それは赤くて、甘酸っぱい香りがして―。

「……りんご」
「え、なんだって?」
バルコは辞書を読み上げるのをやめて聞き返した。
「真っ赤なりんごが見えたんだ。木のテーブルの上に。テーブルには焼きあがってオーブンから出されたばかりのお菓子があって、子どもたちが待ちきれないようすでじっと見つめてる。お母さんがナイフで焼き菓子を切り分ける。そうすると、甘く煮たりんごがとろとろとあふれだして白いお皿の上にこぼれるんだ。テーブルには、りんごの匂いと、“ぼく”の香りが立ち込める。みんなぼくの香りが大好きなんだ。小っちゃい子も、ぼくのことは大好き。そうだ、ぼくは、みんなが喜んでくれるのが嬉しくって、」

少年の頬には赤みがさしていた。
「ちょっと待ってて。そのお菓子は小さい頃に食べたような気がする」
バルコは慌ただしく辞典をめくった。
「りんご、りんごの焼き菓子、用いられる香辛料……。『―に良く用いられる』これじゃないか。ほら、ここ」
バルコが指さした先には「Cinnamon」の文字があった。
「シナ…モン」
ふたりは声を合わせてその文字を読み上げ、それから顔を見合わせた。
「きみは、シナモンなんだよ」

少年の顔が、ぱあっと明るくなった。
「そう、確かにそう呼んでくれた誰かの声が、身体のどこかに残ってる気がする」
少年はバルコの顔を見上げた。
「もう一回呼んでみて。ぼくの名前」
「何回だって呼ぶさ。シナモン、シナモン。いい名前だね。君のその赤い髪にぴったり似合ってるよ」
少年は急に顔を歪ませたかと思うと、瞳から大粒の涙が盛り上がり、頬に零れた。
「ありがとう。ずっと淋しかったんだ。誰かがぼくの名前を呼んでくれる日が、また来るなんて思わなかった」

少年は、泣き笑いのようになってバルコの胸に飛びこんできた。バルコの頬に少年の髪がふわりと触れる。だが少年の勢いを受け止めようとした瞬間、バルコの腕は空を掴んでいた。腕の中に少年の姿はなく、辺りには甘い薫りだけが漂っていた。

バルコは辺りを見回したが、少年の姿は見当たらない。

気づけば卓上のランプも消えており、館内にはしんとした静寂が広がっていた。空気には生気がなく、なんの物音もしない。まるでもともと誰も居なかったかのようだ。香料たちのおしゃべりで、さっきまであんなに賑わっていたというのに。

バルコは館内を歩きまわってみたが、誰の姿もない。立ち並ぶ書架の奥の薄闇も濃さを増したようだ。
「シナモン」
バルコは書架の奥に向けて呼び掛けてみたが、声はうつろに響き、そのまま薄暗がりのなかに消えた。

しばらくその場に留まってみたが、館内はひっそりと静まり返ったままだ。誰かが戻ってくる気配もない。

「寒い」
バルコは襟首をすくませた。香料たちの賑わいがなくなると、火の気のない館内の空気は急に冷えびえとしたものに感じられる。

それからもしばらくバルコは待ってみたが、やがてあきらめて図書館を出て行った。

(続く)


【バルコの航海日誌】

■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b

■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855

■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea 
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a 
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28 
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae 
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987 
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7 
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34 
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb 
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2 
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56 

■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd ☆この話
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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