碧い港のファンタジア《5》雨の日曜、回転木馬の客(連作短編)
《5》雨の日曜、回転木馬の客
アンテの住む街では、月は海から昇る。沖合まで出ていた船たちが一日の仕事を終え、港に戻ってくるのを待つようにして、輝く月が波間から顔を出す。ゆるゆると昇った月の光は、揺らめく銀色の道を海面に伸ばした。光の道は街並みを超え、教会の十字架を照らし、アンテの部屋まで届く。カーテンのない窓から射し込んだ月光は部屋の中を真っ直ぐに伸び、寝台の上に白い道をつくる。
アンテは月の光に包まれて眠るのが好きだ。特に満月の夜、窓から身を乗り出して外を見渡すと、月に照らされて寝静まった街並みは、まるで静かに凪いだ夜の海を思わせる。小さな屋根の連なりは銀色のさざなみとなる。アンテの部屋は小舟となって月光の海をたゆたう。
部屋いっぱいに月光を満たして眠る夜、アンテはきまって海の夢を見た。深く静まる海に月の光が射しこむ。海の底にまで光は届き、白い砂に入り混じった水晶のかけらをちらつかせている。ゆるやかな水の動きは肌には感じないが、ときおり海藻が揺れるのでそうと分かる。ゆらめく海藻と、真珠色の艶を見せながら気まぐれに立ちのぼっていく泡のほか、あたりに動くものは何もない。魚も貝も、珊瑚も青い光のなかで眠っている。夢の中で、アンテの瞳は海面に輝く蒼い月を見上げている。泡はきらめきながら上昇し、海上で小さく弾ける。
パタパタ、パタパタという軽い雨音にアンテは目を覚ました。体のなかには、まだ蒼いゆらぎが残っている。ベッドから起き上がると、雨が窓ガラスに淡い水玉を打ちつけていた。空には淡灰色の雲が広がっている。
きしみを立てる窓を苦労して開け、額に雨粒を感じながら顔を出す。見下ろす街並みはさらさらとした雨に包まれていた。遠くに小さくのぞいている海のおもてにも、きらめく針金のような雨足が小さい輪を広げていることだろう。
「腹が減ったな」
アンテの腹時計では、遅めの朝食の時間といったところだ。アンテの部屋には時計がない。仕事の日は教会の鐘の響きで起き、帰ってくれば眠るだけなのである。休日は、街に落ちる尖塔の影を日時計代わりにしていたが、雨の日にはそれはかなわなかった。
「よし、行くか」
窓を勢いよく閉めるとアンテは外出の準備を始めた。
身支度を整えて真紅の雨傘を手に取る。玄関を出ると、張りつめた傘地に雨粒がスネアドラムのように小気味の良いリズムを奏でた。坂をくだって海に向かう通りに出る。雨に煙る白い通りを、アンテの赤い傘がくるくると回りながら通っていく。
雨粒が、舗道の脇にのぞく夏草を軽やかに叩く。銀色に光る葉の上を滴は珠となって転がり落ちていく。店を開けたばかりの花屋の脇を抜け、暖かい光がこぼれるパン屋の前を通り過ぎると、雨の匂いに潮の香りが混じりはじめる。
やがて、行く手には柔らかい灰色に光る海が見えてきた。このあたりは埋め立てによる新港区域で、その一部が公園となっている。雨降りの今日は、公園の植栽や芝生の緑がしっとりと美しい。今日はベンチでかもめたちにパンくずを与える人もおらず、かもめたちは手持ちぶさたなようすで休んでいる。
そのまま歩を進めると、小雨の鈍色に沈む樹々の隙間から鮮やかな色彩がこぼれだしてきた。赤と白のストライプのテント、華やかな電飾、蔓薔薇の巻きついた白塗りのゲート。《ルナ・パーク》の花文字が飾る頭上の看板をちらりと見上げると、アンテはゲートをくぐった。
ウサギや象の形のトピアリーが来訪者を迎える。濡れた緑が一層鮮やかだ。
ここから先は遊園地になる。遊園地の敷地は海面に向かって舞台のようにせりだした半円形となっている。
海際には白いペンキで塗られた柵がぐるりと設けられているが、柵のすぐ外には海面が迫っており、桟の隙間から手を伸ばせば海水にも触れられそうなほどだ。風の強い日には、石積みの基礎部分に波が砕け、柵ごしに海を眺める人の足もとにしぶきがかかった。
遊園地はこじんまりとしていて、目を惹く遊具は観覧車と小ぶりな回転木馬ぐらいだが、いつもは家族連れや恋人たちでそれなりに賑わっている。だが雨の今日は誰の姿も見えない。
アンテは遊具には目もくれず、園の奥に突き進んだ。お目当てはスタンドで売っている焼きたてのホットドッグだ。いつものように足早に回転木馬の脇を通り過ぎようとして、アンテは足を止めた。
「なにか変だな」
独り言がこぼれた。
毎週のように通い見慣れている光景のはずが、今日はいつもと様子が違う。ここの回転木馬は、磨き込まれたオーク材の琥珀色と真鍮の鈍い金色が印象的なものだ。だがそれが、今朝は純白と紺碧の輝きに変わっていた。天蓋を飾る色とりどりの豆電球は大粒の真珠に変化している。もともとは栗毛や漆黒だった馬たちも、全て白馬になっていた。深紅だった鞍は紺碧に星をちりばめたものに、馬具の金具は貝を模したものに変わり、馬の脚もとにはエメラルドブルーに彩られた波の彫刻が現れている。馬たちが動き出せば、波を蹴立てて海辺を疾走しているように見えるという趣向のようだ。
アンテがあっけに取られているうちに、柔らかくブザーが鳴り、オルゴールの音が流れ出した。無人の回転木馬はゆっくりと廻り始める。回転木馬の天蓋をぱたぱたと打つ雨の音と、古びたオルゴールの響きがアンテの身体をゆっくりと包み込む。
そのときアンテの目に、なにやら金色に波打つものが映った。それまで馬たちの陰に隠れて見えなかったのか、ぽつんとひとり、回転木馬に少女が乗っていたのだ。波のように見えたのは、腰まで届く少女の金髪だった。
少女は、白馬たちのなかでもひときわ見事なたてがみを持つ一頭に横座りし、馬の背を貫く支柱に軽く身をもたせかけている。メロディに乗って馬が上下するたび、少女の髪はなびき、淡い桃色のワンピースの裾がひらひらと軽く揺れる。耳もとに光っているのは真珠の耳飾りだろうか。水気を帯びたような柔らかい艶が遠くからでも目を惹く。
馬上の少女はオルゴールの音に身をゆだねつつ、どこかに思いを馳せているかのように眼差しを彼方に遊ばせていた。しかし自分を注視しているアンテの存在にきづくと、じろりと視線をこちらに向けた。その瞳は思いがけないほどに深い青で、冷たい海の色を思わせる。
自分が無意識のうちに不躾な視線を送っていたことに気づいたアンテはたじろぎ、一瞬あって我に返った時には、少女を乗せた白馬はすでに向こう側に廻って行ってしまっていた。
まぼろしの波を蹴たてて進む白馬が、ひときわ高く跳躍したかに見えたとき、スカートの裾を翻して少女が馬から飛び降りるのをアンテは見た。オルゴールの音色はまだ続いていたが、回転木馬を囲う手すりを軽々と乗り越え、雨に濡れるのもかまわずに、澄まし顔ですたすたと歩いていく。
彼女の行く手では、海沿いの柵でかもめたちが羽根を休めている。柵までたどり着くと、少女は柵の突起に足を掛け、なんなく柵を乗り越えた。と、そのまま足元からするり、と鈍色の海へ滑り込んでしまった。
アンテは慌てて駆け寄ったが間に合わない。すでに少女の姿はなく、凪いだ海面には銀の針のような小雨が降り続いているだけだ。
アンテが呆然としていると、海面にひょこりと金髪の小さな頭が浮かんだ。はだかの肩が波間に見え隠れし、濡れた髪が象牙色の額に張り付いている。耳もとの真珠が小さく光を弾く。彼女は陸地を眺めながらしばらくそこにたゆたっていたが、くるりと向きを変えると、ひらひらとした薄桃色の尾びれが海面にのぞいた。彼女は尾びれで海面をぴしゃん! と叩くと、そのまま沖へ泳ぎ去ってしまった。
後には、微かな水脈が薄陽に光るばかり。
《完》
「碧い港のファンタジア」 全8話(連作短編)
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