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29歳、女、精神疾患持ち③

誕生日を迎えたので本当は30歳だけれど、便宜上このままのタイトルでいきます。続き。

【2011.3.11】

大学から連れ戻されて実家に戻ってからは、殴られ、怒鳴られ、また地獄のような日々を過ごしていた。外出も禁止され、カーテンを開けるのも許されなかった。「出戻りがご近所に知られると恥だ」とのことだった。日の当たらない部屋で、ずっと体育座りしているだけ。限界だった。なんとかして逃げ出すしかないと思った。「お世話になった先輩の論文発表があるから、1泊でいいのでアパートに戻りたい。1日でいいので大学に行かせてください」と土下座して頼んだ。頭を踏まれたのを覚えている。1泊なら、ということで外出を許してもらった。本当は論文発表なんてとっくに終わっていたが、これ以上実家にいるのは無理だった。連れ戻されるとわかっていても、外に出たかった。アパートに戻れた日が2011年3月11日。東日本大震災の日だった。

友達と食事をしている時に被災した。経験したことの無い揺れだった。訳もわからずとりあえず大学に向かった。同じように避難してきた人たちでごった返す構内。ケータイは通じず、テレビもつかなかった。眠れない夜を過ごした。お腹がすいたし、寒かったし、何が起こってるのか全然分からなかった。外に出て空に目をやると、こぼれ落ちそうなくらいの星が見えた。信じられないくらい綺麗な星空。灯りのない構内を月明かりが照らした。あまりにも綺麗すぎて、見とれたあと悲しくなって「どうして」と泣いた。

電気が復旧して避難所のテレビがついた時に目にしたのは、何度も部活で訪れた町が津波にのまれていく映像だった。しばらくして、原発事故のニュースが入ってきた。
不思議な話だが、こんな人生を歩んでもなお、私は生まれ育った東北が大好きだった。空は高く、海は広く、季節によって色合いを変える美しい山々に澄んだ川。夜空を見上げると小さな星までよく見える。満天の星空に流れる天の川。どんなに辛くても、苦しくても、自然に触れれば心が癒された。それなのに、自然の猛威が自分の、自分たちの安らげる場所を奪っていった。

原発事故による風評被害や差別はなかなか消えず、今もなお残っている。復興が一刻も早く進むことを祈ることしか出来ない。

震災から1週間が過ぎた時、家族が避難してきた。なぜ私のアパートに、と思ったが、他に行くところが無いのだろう。受け入れるしかなかった。来るなり「食べ物は?」と言われた。かいがいしく世話をしたが、やっぱり怒鳴られ殴られた。しかし何を納得したのか、「1人で生きていけるなら退学しなくてもいい」と許可された。こうして私は、大学2年生になった。


【躁状態と一眼レフ】

大学2年から4年の春にかけて、私はずっと躁状態だった。何件もかけもちして週9でバイトを入れた。サークル活動も活発に行い、2年なのにバンドサークルに入った。ドラムの練習を始めた。ギターを買い、ギターも練習した。音楽棟のピアノを借り、久しぶりにエルガーの楽譜を買い、何曲も練習した。バイトで貯めたお金で車と一眼レフ3機を買った。車に乗り、カメラを持って外に出かけた。友達にモデルを頼んで被写体になってもらった。そのポートレートがとある写真家さんの目に留まり、Webで写真についての連載を持った。大学の授業も朝から晩まで、月曜から金曜まで、完璧にフルコマだった。

明らかにおかしかったのに、この時の私は「病気が治った、元気になった」と思っていた。「無理しすぎなんじゃない?」と友達に言われても、「無理なんかしてない、元気なのに、この人は何を言っているんだろう」と本気で不思議がった。ご飯を食べなくても平気だった。眠らなくても身体の底からエネルギーが溢れてきた。心療内科には行っていたが、「最近どうですか」「元気です」程度の会話しかしなかったので、自分が躁状態ということに気づいたのは反動でうつ状態になってからだった。


【鬱転、自殺未遂、医療保護入院】

大学4年の春、気づいたら布団から出られなくなった。死にたい気持ちが増幅して、10針以上縫うまで腕を切った。縫ったのは1度や2度では済まず、切って縫って切って縫ってのループだった。何も食べれず、唯一食べることが出来たアイスを山のように買って冷凍庫に入れ、お腹がすいたらそれを食べていた。
そんな間だが就職活動はしていて、2社ほど最終面接に進んだ。1社は教育支援業、もう1社はカメラマンだった。しかし、教育支援業の最終面接前にパニック発作を起こし倒れてしまい、内定が貰えなかった。残るはカメラマンの道。なんだかんだ言っても、躁状態の時に買った3機の眼レフは一応使っていたのだ。「最終試験は実際に写真を撮ってもらうけど、余程のことがなければ大丈夫。少し時間を空けて、9月に選考に来てください」と言われた。

8月、果実酒をロックで2リットル飲んだ。400錠の薬と一緒に。意識がなくなった。やっと死ねると思った。当時付き合っていた人が精神科専門の病院に私を連れて行ったらしく、意識がないまま入院になった。両親は「このまま意識が戻らない覚悟もしておくように」と言われたらしい。次に目を覚ましたのは、入院した日から10日後だった。目を覚まして真っ先に「また死ねなかった」と思った。

急性期病棟の保護室に入れられて、自傷の恐れがあるということで両手両足を拘束されていた。何もない部屋。何もない自分。先生は淡々と「あなたは境界性パーソナリティー障害です」と言った。

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