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【感想】シェイクスピアのファースト・フォリオ

 面白かった…とはいえこの本はいわば歴史書である。それも、シェイクスピアのファーストフォリオが価値ある物へと至るまでの歴史的過程である。たぶん新刊の漫画を買いがてら手に取るものじゃない。

「シェイクスピアのファースト・フォリオ 偶像となった書物の誕生と遍歴」ピーター・W・M・ブレイニー (監訳:五十嵐博久)

 元より私はシェイクスピアが好きです。シェイクスピアが、と言うと語弊があるかもしれない。ウィリアム・シェイクスピアという人物が、ではなく「シェイクスピア」という英国劇作家が、その存在が、作品が、その名を聞くとどうにも心躍ってしまうほどに興味深いのです。なので私はシェイクスピア別人説とかの辺りはあまり心が惹かれない(エンターテインメントとしてはとても面白いと思う)。シェイクスピアが誰であろうが何人であろうが、それが「シェイクスピア」という存在ならばそれで全く構わない。

 そんな私なので本屋で「シェイクスピア」を含むタイトルを見かけるととりあえず手に取ってしまうのでした。しかも「ファーストフォリオ」までセットとなると見逃せるわけがない。「シェイクスピアのファーストフォリオ」は私のようなニワカには輝かしくてならないのです。たかが本、しかも古本。けれどその古くて時代的に保存状態もあまりよろしくないであろうでっかい本を、蒐集家はウン億円(日本円換算)で買い取ろうとする。なぜか。その理由がめちゃくちゃ細かく、細かく、「もう少し簡潔に纏められませんか?」と思わず言いたくなるほどに人名すらしっかりと記載して説明してくれているのがこの本でした。カタカナ固有名詞を覚えるのが苦手な私には苦行でしたが、その苦しみを悠々と越える面白さでした。ファーストフォリオってやっぱりすげえな。

 内容は帯に書いてある通り。当時の印刷技術の専門的な説明、書籍研究手法の専門的な説明、「シェイクスピアの作品全集」を作ろうということになった経緯と著作権関係のいざこざとそれと並行して行われた活版印刷の進み具合、そして刊行後の再版事情、そしてこの本を書くきっかけとなった企画展示へと時は流れ収束する。もはや歴史書。活版印刷技術に疎い私なので、最初の研究手法の説明のところからクエスチョンマークが消えませんでした。所狭しと並んだ英字一つ一つ見て、誰が印刷作業したのか(何人がどれほどの割合で携わったのか)、いつこの活字が活字箱から取り出されたのか、どのページがどの順番で刷られたのか、どのフォリオがどの時期の出版物なのか、そういうことがまるで道筋を辿るように解明されていく。このフォリオのこのページはこの時期のフォリオのページが差し替えられたものだとか何とか、そんなところまでわかってしまう。しかも本の間に挟められた眼鏡とか鋏とかもわかってしまう。印刷面見るだけでそこまでわかっちゃうの?分厚い推理小説かな? 犯人のみならず登場人物のトイレ休憩含む二十四時間を細かに書き記されているかのよう。情報量に圧倒されてしまう。けれど初めから丁寧に順を追って説明していて、写真で実際のページが載っていて、構成はとてもわかりやすかったです。後半は謎解きを読んでいる心地で「なるほどこうしてファーストフォリオは桁外れの求められ方をされることになったのか」と納得しつつ読み終えました。

 最後、監訳者解説で最近の和訳本についても触れていただけてさらに理解が増しました。私がシェイクスピア作品を好む理由の一つが現代でも和訳本がたくさん出版されていることでして、四百年前の異国の物語が旧仮名遣いの和訳文のみならずリアルタイムな現代語版でも読めるということが何よりも贅沢で好きなんですが、その本はどれもフォリオではだとかクォートではだとかケンブリッジ版ではだとか何とか、あらゆる同一作品を注釈で取り上げては「そちらではこういう文面になっている」等と説明してくれているのです。同じ作品なのに出版本によって表記に違いがある、訳者はそれらを踏まえて己がこれぞと思う解釈を書き記す。新しい「シェイクスピア作品」が訳者ごとに生じていく。けれど伝えたい景色は皆同じ。そこが現代の物語にはない点だなと思います。まるでSFの並行世界理論みたい。わくわくします。そういう翻訳傾向が生じた理由として、監訳者は、世界的に各図書館所有のファーストフォリオが一般向けに公開・露出されるようになったことをあげています。なるほど、確かに普通は元にする本を一つに絞って(というかオリジナルとされる本・文章がいくつもあるのが不思議な気がする)それを忠実に翻訳しようとするものね。参照元がたくさんあるのなら複合的に物語を読み解ける。まさに研究。ただの翻訳ではなく、研究結果としての日本語訳シェイクスピア。その点も好きです。ていうか現物をデジタル化して公開してるんですね欧米図書館?! なるほど?!

 内容が一貫して「ファーストフォリオという本」を見つめている点が良かったですね。作者がシェイクスピア研究者(もしくは愛好家)ではなかったからか、過剰にファーストフォリオを褒め称えることもなく、かといって貶すこともなく、「古い本」として始終扱ってくれたのが嬉しかった。かくいう私も「よくわからんけどファーストフォリオってすげえよな!」程度の人間だったので、この本にその心理を説明されたような感じですが笑。とはいえ、この本は私のその不格好な気持ちの形をそれなりのものに整えさせてくれたように思います。少しわかったけどやっぱりファーストフォリオってすげえよな! ニワカな私にとってその点が揺らがずに済んだのが、この本の一番良かった点です。

 内容に関係ないんですけど書籍として重要なポイント。装丁が良いです。カバーも表紙も見返しも手触りが良い…全体的にしっかりしていて、本文用紙も厚めでめくりやすい。書影もお洒落です。良い図書館だ…。日本語版のタイトル長いけど言い回しが「まさにそれ!」って感じで、手に取った時クスッと笑いました。そうなんだよね、ファーストフォリオってもはや「偶像」、アイドルなのよね。「人類にシェイクスピアを与えた本」って言葉も好きです。主語が「本」。まさにこの本の内容そのものの一文。

 元々ファーストフォリオを世界一収集している博物館での企画展示で作られた小冊子だそうで(この文量で小冊子…?)、当然の話、ファーストフォリオを目当てに博物館へ足を運ぶ人以外にはこの本は刺さらないだろうなという印象です。逆に、ファーストフォリオ目当てに博物館に行ってこの本もらえるなら大歓喜する人は多いと思う。良い本に出会えました。ほくほく。この本を入手した本屋さん、店内のとある箇所の本棚に高頻度でシェイクスピア関係の本を数冊置いてくれるのでついつい見てしまいます。ありがたい。そして増えていく積ん読。

 半分ほど読んだ時に「これnoteに書こう!」って思っていたんですが、無事読み終えられて良かったです。最初の方の説明が難しすぎて途中で投げ出すかもと思った…無事読めました。面白かったです。