多様性重視社会の未来の素描と決意表明!

様々な権利保護をはじめ、多様性重視の傾向は引き続いている。
多様性を認めることで、何らかのコストを強いられる、或いは、そこまでいかなくとも何らかの不快感を覚える多数派がいる。
他方、多数派の中では少数派である個性を認めることを求める人達がいて、その人達と多数派の対立をどのように解決していくのか、というのは、今に始まった話ではなく、極めて古典的な問題である。
現在の多様性を重視する社会の風潮は、①今まで社会の中で重視すべきと考えられていなかった個性の数が爆発的に増えていること、②個性を重視すること自体が社会の発展において、不可欠だと考えられるようになっていること、が従前とは大きく異なっているといえよう。


②の点については、そもそも異論のある方も少なくないと思う。
その理由としては、(あ)社会秩序や文化との関係で重んじられるべき個性には限界がある、(い)そもそも個性の重視=社会の発展と考えること自体がおかしい、といったことが挙げられると思う。

(あ)の点は、確かにそのとおりで、例えば、殺人願望を叶えることが個性で、このような個性も保護すべきである、というような考え方は、社会秩序に明確に反し、社会の構成員から誰からも受け入れられない。
他方、従前は受け入れられなかったが、今日では受け入れられべき個性と見なされるものが激増していることは否めない。
アニメやゲームが好きなオタクであるということは、以前は、ともすれば低俗な社会に害悪をもたらすような趣向と捉えられていたが現在の世界の少なからぬ地域において、当然の個性として認められている。
現在は、例えば、アニメでも、ロボットアニメなのか、恋愛アニメなのか、といったジャンル分けに止まらず、恋愛アニメでも、シリアスな設定かギャグ設定なのかと、細分化が進んでおり、結果①のような事態になっているといえよう。
そういった細分化されたニッチな趣向についても、社会秩序に明確な害悪を与えないと認められるものとして、社会の中での存在が許容され、コミュニティとして存在感を発揮している。
ここで、問題なのは、伝統や文化の観点から、個性を守ることを制度として法的に認めようとなると、摩擦が生じ得るということだ。
喫緊の我が国における問題としては、同性婚を法制度として認めるか、という問題があると思う。
同性婚の賛否について、ここでは述べないが、この種の問題は、社会の根本的な価値観の変容を迫り得る場合が少なくなく、少数派の個性を認めれば済むという簡単な話ではないところが困難な問題になっているといえよう。

(い)については、社会が発展し、社会の中で共有することができる資本や資源が増えれば、許容される個性も増えていくものなのだろうと考える。
言い換えると、かつて個性の許容がなかった時代というのは、許容するだけの社会的余裕がなかったということになる。
この考えを進めると、多様性の重視は更に進み、個性として重視されるべきものは、無限に広がり得ることになり得る。
現在は、実際そうなりつつあるように私の目には映る。

そうなると、社会秩序と無限に広がる個性の重視をどのように調整していくのか、ということになる。
多様性が無限に広がる世界では、後付けで規制をする法制度を整えていくことでコントロールするで対応しようという伝統的な考え方は、既に限界が生じている。
いずれ、法制度でコントロールするという考え方自体を捨て去らざるを得なくなると私は予測する。

それでは、そのような社会では、どのように秩序が保たれるか?
私の考えでは、法制度がなくとも、倫理的な各人が美しい社会を維持していく無形のモラルをもちつつ、各人が自らの個性を活かしていく世界になると考える。
これは、まさにかつての思想家達が思い描いたであろう理想社会の最大公約数といっても過言ではあるまい。
勿論、このような世界が実現するには、数知れない摩擦や紛争が起きるだろうが、そのような摩擦等を超えた先には、”自然と”このような社会が実現されるように思われる。
現在の世界を見渡すととてもそんな未来は現実的ではないように感じてしまう気持ちはよく分かるが、社会の変化が激しい今日、この理想世界が実現するのはそう遠くないと思われる。
日々大いに楽しみ、理想社会の到来に向け、大いに準備をしていこうではないか!

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