![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/140554118/rectangle_large_type_2_1e6a9b7efd706f2058eb04dc840d1e58.jpeg?width=1200)
米粒のような小城?~米山城跡
東広島市志和町志和東にある米山城跡は、比高20mほどの独立丘陵に築かれた城跡です。この丘は、長さ約170m、幅約70mと、規模も小さな山です。形が米粒に似ているから米山城と呼ばれたのかもしれませんが、実はなかなか歴史のある小城なのです。
志和盆地は、周囲を標高700m級の山々に囲まれ、盆地に入る峠道を抑えれば周囲から遮断できる要害地形で、幕末には広島藩の隠し城が築かれたほどです。
米山城跡は盆地の東側、狭い谷の底にあります。車で行く場合、国道2号から、志和東を経由して安芸高田市方面に進むと県道沿いに小さな小山が見えて来ます。路側帯の広くなった場所が登城道の目の前にあるので、車を止めて城に向かいます。
![](https://assets.st-note.com/img/1714666851987-6HpW45AoYq.jpg?width=1200)
上り口は、山の反対側にありますが、そこまで5分もかかりません。小さな橋を渡って階段を上がると二ノ丸です。
![](https://assets.st-note.com/img/1715407276370-UUQU58zdRL.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1714667123475-c66Yk0AvaQ.jpg?width=1200)
二ノ丸は数年前まで孟宗竹の竹やぶでしたが、地域の人たちが伐採して見通しがよくなっています。
二ノ丸は、長さ約60m、幅約15mの細長い郭で、北西側の谷状の部分に3段の腰郭があります。この谷が大手だった可能性がありますが、本丸に入る通路は南側にあり、現在、山の周囲が崖崩れで道が残っていないため、はっきりしたことはわかりません。
![](https://assets.st-note.com/img/1715409727577-PvcGWZvSlR.jpg?width=1200)
二ノ丸をさらに奥に進むと本丸が見えてきます。6mほどの高さですが、そそり立っているように見えます。切岸の角度は50度以上あるようです。本丸に向かって右側(北側)に小さな腰郭が見えます。二ノ丸から2m、本丸とは4mの比高差です。
![](https://assets.st-note.com/img/1715407424475-OWC6ek0XQr.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1715407502320-I2YpUPXjva.jpg?width=1200)
本丸へは向かって左側(南側)から登ります。
本丸切岸下、二の丸の突き当りには土塁があり、本丸に行くにはこの土塁を乗り越えて進みます。
![](https://assets.st-note.com/img/1715407999225-ok1qvcGunh.jpg?width=1200)
土塁の向こう側は帯郭になっており、本丸に2m以上の幅広い通路でつながっています。現在は土塁を乗り越えて本丸に向かいますが、城が機能していた時には、この土塁によって本丸と二ノ丸が直接連絡できないようになっていたと考えられます。土塁の二ノ丸側に下に降りる通路の切れ端のようなものが残っていますので、本来は、二ノ丸から一旦下に下り、それから帯郭下の通路を通って本丸に上がっていたものでしょう。
![](https://assets.st-note.com/img/1715408543013-4LOETaEdP7.jpg?width=1200)
本丸に入ると、入り口の周辺が方形に窪んでいます。10cm~20cmほどの微妙な窪みなので、気が付かない人も多いかもしれませんが、広島県内の城跡にはこのような微妙な段差で枡形虎口などが造られている例が多いです。
![](https://assets.st-note.com/img/1715409421049-PVnGzOKf9q.jpg?width=1200)
この枡形は本丸の南東部に10m四方くらいの範囲で造られている非常に大規模なものです。本丸の規模が、長径約42m、短径約22mですから、枡形の占める割合の大きさに驚きます。
![](https://assets.st-note.com/img/1715409544886-VPxiZq3NvQ.jpg?width=1200)
大きな枡形虎口以外に本丸に特徴といったものはありませんが、本丸の北端に二ノ丸との間をつなぐように先述の腰郭があります。本丸との比高差が4mありますが、腰郭の西端に坂土塁があり、2m上に小さなテラスがあります。そのテラスから本丸への通路は見当たりませんが、当時は取り外しできる梯子か階段が設置されていたのかもしれません。平時は、二ノ丸と本丸はこの腰郭経由で出入りし、戦時は階段を外すなりして本丸を独立させ、二ノ丸との連絡は大手側の枡形から二ノ丸下まで降りて、さらに二ノ丸に上がるという複雑な経路を取らせていたのではないかという想像ができます。
![](https://assets.st-note.com/img/1715409640597-hrVoYEX6ym.jpg?width=1200)
来た道を戻り、二ノ丸の先端まで行くと、大きなクヌギの木が1本立っています。この先端はすごく細くなっていますが、下をのぞき込むとかすかに細い郭が見えます。この先は小さな堀切を挟んでもう一つ小郭があります。周囲は激しく崩れているので、元の規模はわかりませんが、小山に築かれた城にしては多くの遺構を見ることができます。
![](https://assets.st-note.com/img/1715644999006-TqqddB8H1t.jpg?width=1200)
米山城は、志芳東天野氏の居城です。こんな小さな城の主人ですから、大したことないんじゃないかと思うかもしれませんが、どうして、源頼朝の側近天野藤内遠景を先祖に持つ安芸国の有力国人の一人です。1570年には毛利元就の七男元政が天野家を継ぎ、米山城に入城しています。
元政は最終的に15,000石以上を領して毛利姓に復し、毛利三兄弟亡き後の毛利家を支えるのです。
米山城がいつ築かれたのか明らかではありません。史料上での初見は、1525年大永五年のことです。
その前々年の1523年、尼子経久が大内氏の安芸国の拠点鏡山城を攻め落とします。この戦いで大内方だった安芸国の国衆たちはこぞって尼子方に寝返ったのです。米山城の天野興定もその一人でした。なぜ、安芸の国衆たちは尼子氏についたのか。それには深いわけがありますが、それは別の機会にお話しましょう。
反撃に出た大内氏は、1525年4月頃、米山城を囲みます。大内氏の大軍にこの小城ではひとたまりもなさそうですが、6月まで持ちこたえ、講和によって、城を大内氏に明け渡すのです。城が返還されたのは、3年後の1528年のことでした。
天野氏はその間どこにいたのでしょうかね?
その後は、天野元政が、居城を志和盆地の中央にある生城山城に移すまで、天野氏の居城として使用されました。
米粒のような小さな城ですが、その豊かな歴史にふさわしい様々な遺構が残る名城といえるかもしれませんね。