空間と作品を同等にする方法について

 本日より東京五美術大学(多摩美術大学・女子美術大学・東京造形大学・日本大学芸術学部・武蔵野美術大学)卒業・修了制作展が国立新美術館にて開催される。私が所属する武蔵野美術大学日本画学科からは通常の絵画作品に加えて、立体作品の出品も目立っていた。立体作品の出品は伝統的には油絵学科の方が多く、今年は例年に比べ日本画学科の立体作品に勢いを感じた。
 しかし日本画学科の展示スペースは絵画向けに幅が狭い空間になっており、絵画がひしめく空間の中央に立体作品を無理矢理に設置する状況があり、総じて立体作品が苦しくも見栄えしない展示であったように思われた。立体作品が幅を取ることで周辺の絵画が距離をとって鑑賞できなくなる事態も生じてしまっている。これは有効な教育効果をもたらしているとはいえない。
 さて、日本画学科の私としては作品の空間性に対する意識は、先の学科の状況がそうであるようにその思考も含めて希薄である。そこで作品と空間の関係について、今日はランドアートを軸に少し考えたことをメモしておく。

メモ[空間と作品を同等にする方法について]


 作品を設置することで設置した空間の雰囲気を変えようとする(ランドアート)ためには、作品の主体性を下げ、空間を強調しなくてはならない。 空間を強調させるには、1つの立体物だけで成立させるのは難しい。作品は1点よりも2、3点によって構成される方が空間を巻き込みやすい。
 作品が1塊しかない場合、人はその1点しかない作品に注目し、周りの景色に目を凝らさない。確かに壁掛けの絵画作品に比べれば、立体物を地面に置くだけでも空間との関連性は強まる。動線も空間的なものを強制する。しかし風景の中で作品の主役性が強いために、景色より作品の方が印象に勝り、周りの風景は額縁と同じく作品の周りにあるモブ的=副次的存在(パレルゴン)と化してしまう。
 そのため作品を2、3点に分けることは空間を説明する有効な方法となる。1つの作品が複数の塊に分かれているため、立体物同士は関連を持ちながら、空間を作品の余白として取り込む。空間の遠近を作品の内に取り入れることで、立体物単体の主役性を下げることができる。地面に何かを撒いたり敷いたりして作品の一部とすることもまた作品を2、3点に分けること同様の効果を持っている。(枯山水はこれらをいずれも使用している。)
 1つの立体物だけで成立が可能な例外は2つ考えられる。1つは作品に透過・反射する要素があること。もう一つは作品が巨大であることである。透過・反射する要素は立体物と風景を同位置に見ることを可能にする。(参考:内海昭子《たくさんの失われた窓のために》)作品が巨大であることは、作品の主体性を強めはするが、作品からいくら距離を置いても人の視界に入るため、副次的存在として含まれる風景の面積も広くなる。そのため風景の欠片ではなく、風景全体が視界に入りやすくなる。巨大であることによって風景に同化するとも言える。
※冒頭に「作品の主体性を下げる」と述べたが、正しくは作品に空間を取り込むことである。しかし空間の広さ(人間の視界の広さ)から空間に作品を取り込むと言うが正しいかもしれない。

2023年度 第47回 東京五美術大学連合卒業・修了制作展
日本画学科 会場風景

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