やりたいこと圧力
圧力は、言い過ぎか。「目標」とか「Will」とか「やりたいこと」を聞かれることが、ここ最近多い印象がある。(前がどうだったのかとか、子供の頃どうだったかとかはよくわからないけど、上記の類のものがあったほうが良い(「べき」!?)という無言の風潮は少なからず、あるのは間違いないだろう。
私には、自信を持って心の赴くままに「我、これを成し遂げたいものざんす!」というものがない。
言葉として置きに行く目標やゴールはあるが、極論世の中へのインパクトとかを心から想って行動しているものは、ない。
やや矛盾を含むかもしれないが「自分の周りの人を大切にしたいな」「あー今日も良い一日だったな」「あの方、最近元気ないけどどうしたんだろ、元気になってほしいな」という想いはある。
そう、「目標」や「やりたいこと」と聞かれると絞り出すように言葉に置きにいかなければならないことも「どんな想いを持ってますか?」と聞かれたら素直に答えられる気がするんだ。
この違いを言葉に置くとすると、
・「反応的な意志」と「創造的な意志」
・「犠牲的な愛」と「無償の愛」
・「ありたい姿」と「なりたい姿」
などに分類されるものかもしれない。
(書いてておもったが「〜的」という言葉の曖昧さには、救われると同時に自身の言葉を扱う上での未熟さを感じる。)
おそらく、両者に大きな違いはない。自らの意志が始まったと考える出発点が「自由」から考えるのか、「不自由」から考えるのかの違いであって、それはぐるぐる回っている同じ世界の話なんだろうと。
私は反応的な、犠牲的な、ありたい姿から考える人間のため、見えている世界の入り口からはこんな景色が見えているが、創造的な、無償の、なりたい姿を持っている人にはどんな景色が見えるのか、問いをしてみることが楽しみ(Will!!)でならない。
to be continue.