直感に従って映画館に行った日
昔、京都で大学生だった頃「あ、今日映画行こうかな」と、思い立ったら30分後には映画館にいられるような、自由で贅沢な時間の使い方をしていた。
働いている今、あの頃より使えるお金は増えているはずなのに、映画を観る時間や体力をもったいないと感じるようになった。
待っていれば、サブスクで観られるようになるし、つまらなかったら途中で再生をやめればいい。
便利で昔より多くの数の映画に出会えるはずなのに、心に残っているものは、常に映画館にいた私の視点からの、映画館の広さや暗さ、非常口の光。
帰り道の、京都の湿ったじっとりとした空気。近くて大きな満月。
私が映画館に行くのはいつも、独りぼっちで過ごす夜だった。
今の私には一緒に暮らす家族がいて、いつも家はあたたかく明るい。
けれども私はなぜか、独りになりたくなることがあり、そう感じることにまた罪悪感を感じる。
夜には出かけにくいけれど、朝早くに行ってみようか。
私を独りぼっちにできる空間が必要だった。
観たい作品があるという理由以外にも、映画館に行ってもいいんだ。
明るい映画は観たくなくて、じめじめした映画に決めた。
私が選ぶのは、大体そういう雰囲気の映画なので「どうしてお金を払って不快な思いをしにいくの?」と、聞かれたことがある。
まったく救いのない話や、結末がよくわからない話に惹かれてしまう。
たしかに、自分の人生もおぼつかないのに、映画くらいスカッとするものを観てもいいのかもしれない。
でも、私は他人が描くモヤモヤにこそ助けられる。
辛いことがあると、自分の中にある黒い感情や、割り切れない気持ちを、一人で背負っているような気持ちになる。
そんなときモヤモヤ映画をみれば、これを作っている人も、演じているひとも、観ている人も、なにかしら抱えているものがあるんだよね、と安心する。
安心して、まあお互い頑張ろうぜ、と前に進むことができる。
今日の選択は大正解。
ハッピーエンドでもない、ぼんやりと灰色がかった映像をみて、
私はまた家に帰って、日常を送る。
ゆうこ
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