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“半径三メートルの実感”(©妹尾河童)・・・自分の感性を信じること


2000年12 月28日

“半径三メートルの実感”(©妹尾河童)・・・自分の感性を信じること(椎名誠『インドでわしも考えた』を読んで)

最近ようやくにしてインドに関する本を読んだ。いままで関心がなかった訳ではないが、個人的にはインドへの道は遠かった。

その書名は、椎名誠氏の『インドでわしも考えた』集英社文庫 1988である。ハードカバーの出版は1984年(昭和59年)なので、何をいまさらという向きがないわけではないが、以下、個人的なアジア観を述べる。

もう10数年も前になるが、中学・高校生時代に、本多勝一の『中国の旅』や『戦場の村』(ヴェトナム)等々の一連のルポルタージュを読むうちに、中国や東南アジアに対する畏れを感じた。当時すでに戦後35年が過ぎていたとは思うが、まだ東西冷戦の真っ最中で、核の問題、代理戦争としての地域紛争がつきず、まだまだきな臭い時代だったと思う。

そんな中で、日本人自身の現場からの告発を読んで、漠然と知識としての日本人の戦争責任とか、戦後における日本人のアジアへの付き合い方について疑問を感じていた。

そしてインドというか南アジアは、父親が昔から関心をもって研究していた。だからあえて親父のテリトリーに手をだすこともないと思っていた。そんなこともあり、中高生の当時は「(底知れないという意味もあって)アジアはこわい。そして、アジアは近くて遠い」といった感覚であり、それは実はつい最近まで暗に引きずってきたような気もする。(結局アラビア語というかイスラームの世界を大学で勉強しようとしたのも、実は“日本人として手を汚していない地域だから”(事実はともかく)という理由もあったのかもしれない。)

今思えば、まったくバカな話だが、自分自身を現場におかずに、書物の知識だけによって、偉そうに「日本人としてどうアジアと向き合っていけばよいのか、付き合っていけばいいのかわからない」などと真面目に深刻ぶっていた。しかし、本多勝一の一連のルポルタージュは多分、今読んでもかなり毒のあるものだと思うし、日本人として特に若い人で人格形成に影響を受けた人はかなり多いであろう。(注1)

さて、今回、椎名氏の本を読んでみて、当たり前というか、本当に大切なことに改めて気づかされた。それは解説で妹尾河童氏(注2)が書いていることであるが、「…あえて先入観を持たない状態で自分の体をその地に運んでいく。彼は、ペダンチックな知識に惑わされることなく、自分自身の感性によって捉えた“半径三メートルの実感”でしか書かない人である。」という一節に集約されよう。(下線は筆者)

20世紀も終わろうとする今日、いま私たちに必要なことは、この「歩く仲間」でなんども触れていることだが、やはり自分自身で「歩く・みる・きく」(鶴見良行)ことを実践していくことであろう。結局、本多勝一も椎名誠も妹尾河童のいうことも、ワン・オブ・ザ・インプレッションというか彼ら当人にとってのリアリティであり、参考にすることはあっても、それが全てではないことを忘れてはいけない。

そして、自分自身の感覚を大事にすること。知識を否定するわけではないが、万巻の書物よりも、自分自身の実際の現場体験を大事にしていきたいと思う。(それもまた全てではないが。)

来年(21世紀)は、ようやくインドかなと思いつつ。

注)

1.本多勝一の主要なルポルタージュについては、朝日新聞社の文庫版で「本多勝一シリーズ」として収録されている。

また、中野美代子編 『本多勝一を解説する』 晩聲社 1992 という54もの解説ばかりを集めた本もあるので、本多勝一の日本の社会に与えたインプレッションに関心のある方は、こちらも参照のこと。

2.妹尾河童氏自身の『河童が覗いたインド』新潮社も、いわずと知れたインド本の定番のベストセラーである。

(この項終わり)

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(20年後の転載後記)

実は、上の記事は、20年前にホームページにアップした記事である。新型コロナウイルス過にあって、テレワークやワーケーションなどわけのわからないカタカナ語をふくめ、オンラインでの新しい関係性の構築が生活に必要不可欠なものとして人々の生活に入り込んできた。
コンピューターやインターネットができて以来、この流れは急速に拡大し強さを増してきていたわけであるが、一気に激流となった感がある。
世界に瞬時でカメラやモニター越しでつながれるようになったことは、今後世界に物理的なメリットデメリットだけでなく、大きな意識と社会変容をもたらすであろう。
しかし、逆に、自分の足元の生活そのものを見直す動きも勢いを増している。ソーシャルディスタンスといって、距離をおけと言われればこそ、今までは濃密接触などと嫌悪されるが、今までの「濃密」な人間関係の距離感に意識が向くことは無理もないことであろう。むろん、だからといって昔がよかったという懐古趣味に浸ることは許されない。
新しい日常としては、瞬時に世界の裏側につながるインターネットというバーチャル空間を経由した「半仮想世界」と、本記事でかいたような極めて身近な手の届く「リアルな世界」とか入り混じったものとなるのであろう。
どちらが大事とかどちらかに意味や意義があるのではなく、両方ともの世界を軽やかにいったりきたりできる人たちが、デジタルネイティブの人たちのニュータイプなのであろう。
ちなみに、「来年(21世紀)は、ようやくインドかな」のくだりをフォローすると、実際に、インドに足を踏み入れたのは、2015年のことでした。まあ、そんなものでしょう。

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