「世間師」、「裸足の研究者」そして「絶望」を超えて(宮本常一、鶴見良行、鎌田慧寸評)
今年(2020年)の6月から共創ワークショップという月例の勉強会を5名の仲間と始めました。イントロダクションに引き続き、わたしが会の趣旨などをお話しているのですが、7月から9月の3回にかけて、「宮本常一と歩く学問」というタイトルで宮本常一さんを取り上げています。
なぜかというのは、勉強会の中で話していることですが、そもそもこのようなテーマに興味と関心をもったきっかけみたいなことが、この20年前の記事に書いてありますので、ご参考までに転載させていただきます。
(写真は、フィリピンのミンダナオ島での一コマです。)
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2000年2月5日
「世間師」、「裸足の研究者」そして「絶望」を超えて
最近、今年(2000年)の1月~3月期のNHKの人間講座で佐野眞一による「宮本常一が見た日本」というテレビ番組が組まれた。また、同時期に福井勝義の「東アフリカ・色と模様の世界~無文字社会の豊かな想像力~」とエチオピアの牧畜民をあつかった番組が組まれたことをみて、ずいぶん、日本というか、世の中の情勢が変わったなと思った。
さて、「世間師」とは、“奔放な旅を経験し広く世間を見聞した者を「世間師(しょけんし)と呼ぶ、”と宮本自身が書いているそうである。
この世間師の代表的な存在として、今、私が個人的に敬愛している2者を紹介したいと思う。
まず、タイトルで「裸足の研究者」と書いた人は、誰であろう鶴見良行氏である。最近、本屋で全く偶然に、「鶴見良行の国境の越え方」という本を手にした。そして、数年前(1994)に彼が亡くなったことを東京に勤めていた私は、何の風の便りか知っていたこと(実際には新聞か何かで知ったのであろう)と、もう10年前に大阪外国語大学時代に、「地球環境論」という連続講義の一こまを講義にきた先生(彼)にお会いしたこと。授業の後の懇親会(フィリピン語の津田先生の自宅)にどさくさにまぎれて参加していたことを思い出していた。たしか、時期的に鶴見先生が龍谷大学に移られて、『ナマコの眼』を刊行するか、刊行した直後ぐらいの時点であろう。私は、『バナナと日本人(岩波新書1982)』ぐらいは読んでいたと思うが、恥ずかしながら、そのお会いした当時は、全くといっていいほど鶴見良行に対する予備知識がなかった。(はっきりいって、「バナナ」といってもぴんとこなかったぐらい、その本のことすら忘れていた)そのときの彼の印象は、ちょっと顔色が悪いかなということと、小柄で細みな癖に、つり用?のポッケのいっぱいついたチョッキを着ていて、おしゃべりで、やたら活動的ないでたちであったことぐらいしか覚えていない。
今回、この1999年の上智大学で行われた彼をしのぶシンポジウムの記録を読んで、今ならすぐにでも押しかけてでもお話ししたかった人に、既に10年前に実際にあっていること、しかし今はもういないこと、つまり一期一会の厳しさを思い知らされることとなった。
同書では、花崎皋平、ダグラススミス、村井吉敬らが、彼の人となりを語っている。人それぞれ、いろいろな見方があり、そんなにかっこいいことばかりでないと思うし、他人の話であるから話半分ぐらいに聞いておけばいいと思うが、佐伯修の「アジアを見る目 中央を拒みつづけて海を見る」という対談(1992)も彼自身の考え方を知るうえで、参考になるのであげておく。やはり、彼の業績というか実際に偉いと思うのは、とにかく現場を歩いたことにつきると思う。中央というか学会からは無視されていたという証言もあるし、かといって市井に媚びたわけでは決してない。とにかく「象牙の塔」とは無縁に、丹念に人とものとのかかわりを、自分の足で一つ一つ訪ねていく。まさに、世間師であるといえよう。
次に紹介したいのは、鎌田慧である。私の感覚では、彼は今でこそ、岩波書店で単行本を出したりしているが、『自動車絶望工場』を書いていた頃は、はっきりいって際物扱いされていたと思う。(直接、その当時の状況を知っているわけではないが)
私は昔からルポルタージュ系のノンフィクションが好きで、中学校ぐらいからいろいろ読んでいたが、同時代として中高時代によく読んだのは、本多勝一のルポルタージュであった。しかし、この鎌田慧に関心を持ち、積極的に意識しだしたのは、『ぼくが世の中に学んだこと』という半自伝的な彼の生い立ちに触れた本を読んでからである。この本は、当初、中学生向けの叢書の一冊で、わたしも中学生時代の図書館でそのハードカバーの背表紙は見ていた覚えがあるような気がする。しかし実際に読んだのは、就職してから2~3年目のことであった。仕事に対する愚痴や、またその辛さが少しわかり始めた頃に、たまたま出会って、本当に頭をぶん殴られる気がした本である。逆にいうと、この本は、中学生向けでありながら、多分、「ガキにはわからない」本だと思う。彼は、18歳で東京に働きに出て、労働組合運動とかもやって、首になったりして、3年後に早稲田大学の露文に入学する。そして業界紙の記者となり、ルポライターとして独立し『自動車・・・』などをものにしていく。その経緯などが綴られているが、なによりも私の一番の心を打ったのは、彼の「人間に対するまなざしのやさしさ」である。鉄鋼業界から始まって、最近では屠殺場のルポまで書いているが、誰に対しても真摯に向き合う、人を見下すでもなく上に媚びるでもない「人と人と四つに組む」姿勢には、本当に頭が下がる。
私は、最近、友人で仕事や勉強に行き詰まった人に対して、この本を薦めるようにしている。誠に恥ずかしい話であるが、この本を読むたびに、学歴社会における「エリート」の思い上がりや、世間知らず、そして、その脆さなどを感じてしまう。本当にこの本は、ガリ勉秀才の俗にいう「エリート」や、自分自身の「エリート」意識の自覚もできない(受験に巻き込まれて、大学など行かずに小中高で就職していく友達と、どんどん、さも当然なような顔をして縁を切ってしまったような)普通の若者こそが読むべきだと思う。この本を読んで、自分では意識していなかった「エリート」意識に気が付けば儲けものである。ある意味では、ちゃんと「世の中」に学んでいる人には、この本は釈迦に説法かもしれない。しかし、いままでの日本の社会が目指していたものは、果たして何であったのだろうかと、彼のルポルタージュから考えさせられる。
最近、たまたま『アジア絶望工場(講談社文庫1987)』で上記、鶴見良行と鎌田慧が対談しているのを知り、つくづく「同時代に生き」ているということを、感じさせられた。知の連鎖というか、人、互いに共鳴しあうというか、大きな同時代意識というものの存在を信じざるを得ない。
所詮、人の子は、時代の産物でしかないかもしれないが、みんな別々に生きているのに、なんとなく同じ方向を向いていたりするのを知ると、“世の中”で“人”に揉まれて、切磋琢磨せんきゃいかんなとつくづく思った。
タイトルに書いた“「絶望」を超えて”というのは、今現在の鎌田慧のスタンスでもあると思う。最近の彼の著作にははっきりと“絶望”とうたっているものは少ない。これは、彼が“絶望”を超えて達観してしまったからなのか“絶望”することすらあきらめてしまったのか、本意はわからない。
しかし、われわれは、世の中に「絶望」することなく、ちゃんと自分の足で歩き、それぞれが「世間師」なり、「裸足の研究者」を目指していきたいと思う。
(鎌田慧は、未だに絶対に人間に対して“絶望”していないと信じる。もし“絶望”してしまったら、彼自身の存在が危なくなるであろうから。)
(参考文献)
○ アジア太平洋資料センター編『鶴見良行の国境の越え方』アジア太平洋資料センター 1999
○ 佐野眞一 『宮本常一が見た日本』 日本放送出版協会 2000
○ 佐伯修「アジアを見る目 中央を拒みつづけて海を見る」、別冊宝島編 『学問の仕事場』 JICC 1992
○ 鎌田慧 『アジア絶望工場』 講談社文庫 1987
○ 鎌田慧 『ぼくが世の中に学んだこと』 ちくま文庫 1992 (単行本 ちくま少年図書館70 1983)
補筆:
最近、「鶴見良行 『東南アジアを知る -私の方法-』 岩波新書 1995」を古本屋で見つけて読んでいる。すでに5年も前の本なのに知らなかったのかと言われればそれまでだが、彼の思想の変遷が伺えて興味ぶかい。(2000年3月23日)
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