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ドラマ『相棒』と考える、フィクションと個人の生きづらさ

ドラマ『相棒』が好きだ。

秋冬シーズンは『相棒』のために生きていると言っても過言ではない。(過言)

警視庁の窓際部署である「特命係」の杉下右京とその相棒が、様々な事件に首を突っ込んでは解決するこのドラマは、他の刑事ドラマとは一線を画している(個人の感想です)。

『相棒』は、人間と正義を、そして人間と罪を、一貫して描き続けている。

刑事ドラマは事件のトリックを明らかにするとともに、動機の解明を通して人間模様を描き出すのが定型だけれども、

やっぱり「それは仕方ないわ」と思ってしまうような犯人の動機であるとか、一人の人間にはどうしようもない社会の無情が詳らかになると、「いい感じのドラマ」的な終わり方になってしまうもの。

『相棒』には、安易に共感を誘うような「いい感じのドラマ」には絶対にしないという信念が根底に流れているように思う。

時にはかなり後味悪い終わり方になることも厭わない。

いかに同情を誘う事情があったとしても、
必要悪と呼ばれるものであったとしても、
捜査に協力してくれたとしても、

犯罪は犯罪であり法によって裁かれなくてはいけない、という姿勢を崩さないことで、杉下右京は正義であり続ける。

最近の『相棒』は、と言うほどわたしの歴も長いほうではないけれども、

かなり意識的に、社会課題やマイノリティを取り巻く社会をテーマとしています。

直近の放送であるシーズン17の第9話では、外国人差別について(しかもこのタイミング)。

昨シーズンでは戸籍のない少年、サヴァン症候群、相貌失認症といった問題を抱える人が登場しました。

性暴力被害の捜査が公権力によってストップさせられるという、具体的な現実の出来事を想起させる描写もありました。

それ以前にも、視覚障害者、派遣切りにあった人、劣悪な環境で働く外国人労働者、引きこもりの少年、DV被害者、などなど。

(今あげたような個別の問題を一緒くたに語ることはもちろん、褒められたことではありませんが、大多数の登場人物がマジョリティを前提に描かれている以上、やはり意図して設定されていることは明らかなので、ここでは緩く近しいまとまりとして書きます。)

こういった社会の課題や、生きづらさを抱える人々を描くのは容易ではなく、当然批判を受けるリスクも高まります。

シーズン17初回では、薬物依存症の人物の描き方があまりにもステレオタイプなのではないか、依存症患者に対する誤解を世間に植え付けるのではないか、とネット上で議論が巻き起こりました。

わたしは、ドラマの中に多様な困難を持つ人々が登場するのは、健全なことだと思っています。

現実にも多様な困難を持つ人がいる以上、それを写し出すフィクションにマジョリティの人しか登場しないというのは、社会からマイノリティを排除することに繋がってしまうと思うからです。

『相棒』のように視聴率が高くて影響力を持つドラマがそこに挑戦するのも、大変意義あることだと思っています。

そのメリットは、社会で起こっている問題や可視化されづらい生きづらさについて、視聴者に投げかけ広く知らせることができること。

注意しなければならないのは、描き方一つで誤解や偏見を招くことや、人の心を都合よく切り取ることが可能になってしまうこと。

シーン17第8話で、「エンパス」とされる人物が登場しました。

「エンパス」について的確な紹介文が見つからなかったのですが、簡潔に述べるならば、他者の感情に共感する力が並外れて高い人のことです。

「サイコパス」の真逆であると表現されることが多いです。

(ただし、「サイコパス」自体がかなりライトに使われるようになってきています。少し特殊な感覚を持っている人のことや、思いやりのない利己的な人物のことを「サイコパス」と呼んでしまっていることが散見されます。)

『相棒』放送中および放送後のTwitterの感想は、大雑把に分類するとこんな感じでした。

(Twitterのアクティブユーザー層であるという時点で、視聴者の中でもある程度のスクリーニングが自動的にされているという点は留意すべきです。)

・自分ももしかしてエンパスなのかも…!?

まだそこまでメジャーな言葉ではないのでドラマで初めて知った人も多いようです。
そして一緒にいる人の憎しみに影響を受けて自分の行動も変化してしまうという描写に、自分も同じ経験があると感じた人も少なからずいたようです。

・エンパスは疑似科学

エンパスは、2018年末時点では明確な科学的証拠はないとされているため、疑似科学だ、オカルトだと考えている人も多くいます。
そのような曖昧な存在を、事件のトリックの一部として取り入れることには、影響力のある番組が疑似科学を広めていると感じた人もいたようです。

・エンパスの描写に誤解を招く箇所がある

ドラマの中では、周りにいる人の心の中にある「言葉」が、エンパスである人には全て聞こえているかのような演出で表現されていました。
エンパスの特徴は「感情に共感する」ことですが、この共感というのがどういったことか説明するのはとても難しいのです。
当事者であるという人の表現では、「他人の感情が流れ込んでくる」もしくは「他人の感情で頭からすっぽり覆われる」と言われることが多いです。
そもそも感情は何かを感じた時点では言葉にはなっていないと思うので、心の中に明確な言葉が台詞のように存在するのかどうか、という疑問も生まれます。
したがって、エンパスの描写として「心の声が聞こえる」は適切ではないという意見が出てくるのは必然でもあります。

わたしは個人的には、エンパスはHSP(Highly sensitive person)の持つ性質のうち、他者の感情に影響を受けやすいという部分が著しく特化している人なのではないか、と考えています。

HSPは感覚過敏(光や音や匂いなどの刺激に敏感)であったり、感受性が豊かであったり、他人の感情に影響されやすかったり、といった性質を持ちますが、そのうちどの部分を強く持っているかは人によって全く異なります。

だから、そのうち「他人の感情に影響される」という要素をとりわけ強く持つ人がいても、そんなに不思議ではないのでは、と思います。

正確なことはわかりませんが、少なくとも、現時点で科学的に証明されていないという理由で疑似科学と判断する姿勢は、あまりにも非科学的と言わざるを得ません。

そして、エンパスをドラマの中で扱った『相棒』に対する感想としては、こういったあまり表に出ていない、知られていない生きづらさを描いたことは、大変尊い試みだと思います。

これをきっかけにエンパスについて関心を持った人が、自分の性質に気付いたり適切な対策を取ったりすることに近づく可能性は、確実に提供したと思いますし

目に見えない生きづらさを抱える人がこの世に存在するのだ、という提言にもなったと思います。

しかし、やはりもう少し深い考察も欲しかったという気持ちは拭えません。

感情は目に見えないので、「他者の感情に影響される」ということを映像で表現するには、例えば光や色といった抽象的な表現をするとか、何かしら演出的な工夫が必要だと思います。

しかし一歩間違うとそれは、ファンタジーのようになってしまいます。

すると、割と落ち着いた芝居で作られている『相棒』のテイストとどうバランスを取るのか、という問題が出てきます。

そうした試行錯誤がもしかしたらあったのかもしれないとは思うけれども、結果的に「言葉に置き換える」という手法が取られたことについては、わかりやすさに流れてしまったのかなという残念な気持ちがあります。

それは正しいか間違っているかという問題以上に、人間の心の動きがテレビに合わせて切り取られ多くの人に伝わることへの危惧なのです。

ドラマなのだから、フィクションなのだから、深刻なことは考えずに楽しめばいい、という考え方も確かにあります。

そうした楽しみ方が間違っているとは決して思いません。

でも、それが全てだとしたら、どうしてわたしたちはフィクションだとわかっているものを見て、悲しくなったり辛くなったり、頑張ろうと思ったりするのでしょう。

そこで何かしら心の動きがあることは紛れもない事実であり、フィクションが現実に影響できるということの証明だとわたしは思っています。

フィクションの中で扱うということは、単なる’情報’ではなく’物語’として伝えることができる、ということで、目に見えない言葉にできないことまで、もしかしたら伝わる可能性も秘めているのだと思います。

だとすれば、ドラマの中で人間の心について丁寧に考えていくことは、社会に対するフィクションの役割でもあると思うのです。

さらに言えば、もっと多様な人間を、もっと誠実に描かれた人間像を要求することは、わたしたち視聴者が持つ、未来に対する役割でもあると思います。

コンテンツを無限に選べるこれからだからこそ、マスメディアにももっと解像度を要求できるようになっていくかもしれません。

そんなわけなので、わたしは2019年も大好きなドラマを応援しながらも、よりよいフィクションを求めて細かいことを気にする文章を書いていこうと思います。

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