web古地図散歩 若松河田~江戸川橋1
当舎が町歩きイベントとして開催している「古地図散歩に行こう!」をweb上に再現しました。約5キロを3時間ほどかけてお客様に実際に案内している内容を再現したものです。1~6回のうち、1回目だけ無料でお読みいただけます。2回目以降は有料でのご購読となります。2~6回はそれぞれ150円、1~6すべてと配付資料が載っているマガジンは600円です。
元大名の屋敷
みなさん、こんにちは。
今回は新宿区の住宅街、牛込台地の上にある若松河田の駅から、神田川沿いにある江戸川橋の駅まで歩いて行きます。
この区間にはめぼしい観光名所はほとんどありません。しかし牛込台地の上は江戸時代からつづいている細い道が多く、このような細い道の奥へ奥へと歩いて行くのは、えもいえぬ楽しさがあります。今回はみなさんに、細い道を楽しんでいただきたいと思います。
本日のコースはこのようになります。今いるところは左下の赤線の端の若松河田駅、終了場所は上の方にある赤線の端の江戸川橋駅です。
この赤線を見ても、ギザギザですよね。今日は幹線道路よりも路地から路地へと歩いて行きます。
まず若松河田の駅から出ましょう。地下鉄の出口を出たら振り返ってください。出口の後ろになにやら立派な建物があります。近くに行ってみましょう。
この建物は今はレストランとして使われていますが、もともとは江戸時代に大名だった小笠原伯爵の邸宅だったんです。江戸時代の地図を見てください。「●小笠原左京大夫」と描いてありますね。ここは小倉藩小笠原家の下屋敷があった場所なのです。その下屋敷のほとんどは新政府に接収されましたが、敷地の一部が小笠原家に残されて、それ以降はここが小笠原家の本邸になりました。
ちなみに江戸時代に小笠原の殿様が日ごろ住んでいた上屋敷は、今の大手町にありました。
現在残っている建物は、関東大震災の後に建て直されたもので、昭和2年(1927)に完成したものです。このときの小笠原家の当主は小笠原長幹(ながよし)、最後の殿様の息子に当たります。建物を設計したのは中條・曾禰建築事務所で、スペイン風、スパニッシュ様式の建物になります。中條・曾禰建築事務所は、ジョサイア・コンドルや辰野金吾とともに丸の内のレンガビル街を造った曾禰達三が、後輩の中條精一郎と立ち上げた設計事務所です。この建物は曾禰達三晩年の作品ということになります。
入口の庇のガラスに葡萄の装飾があるなど、とても素敵な建物ですが、スパニッシュ様式の特徴は屋根にありまして、瓦を見てください。瓦の形がかまぼこのような半円筒形をしていますよね。このスペイン瓦を使った屋根がスパニッシュ様式の特徴なんです。
とてもよい建物なのですが、戦争に負けたときにはアメリカ軍に接収されてしまい、返還されたら今度は東京都の持ち物になってしまいました。児童相談所などに使われていたのですが、その後は長い間使われなくなり、そこでこの建物を活用するために民間に貸し出すことになって、平成14年(2002)からスペインレストランになったのです。
御家人たちの住居跡
それでは旧小笠原伯爵邸を離れて、駅の出口のあった通りへ戻りましょう。信号でこの通りの反対側に渡って少し右に進むと、左に入る路地があります。この道がまた細い道ですね!
この道は江戸時代からある道です。江戸時代の地図を見てください。「大御番組」とある中に四角い道が描かれていますよね。この道が今歩いている道なんです。
江戸時代は身分制社会です。身分によって住む家もちがいます。大名や位の高い旗本は大きな家に住んでいます。それに対して下級武士である御家人は長屋のような家に同僚たちと一緒に住んでいました。これを組屋敷といいます。
この場所は大番組と呼ばれていた将軍の直轄軍の構成員のうち、与力や同心と呼ばれていた御家人たちが住んでいた組屋敷の跡なのです。大番組、将軍の軍隊なので「御」が付いて「大御番組」と描いてありますが、これは旗本が主力の部隊で、旗本たちの下に与力・同心たちが所属していたんです。旗本たちは外堀の内側のもっとお城に近いところに家があります。四ツ谷から市ヶ谷駅にかけての東側に、千代田区一番町から六番町がありますね。通称番町といわれているところですが、あそこが旗本たちが住んでいたところです。大番組が住んでいたから番町なんです。
それに対して御家人たちはお城から離れたところに家を与えられていました。身分が低いと家が小さいだけではなくて、家の前の道も狭いんです。その名残で今もこのように狭い道があるんです。
でも場所によっては道の幅が広くなっているところもあります。現在は法律によって、家の敷地は4メートル以上の幅がある道と接していなくてはならないことになってます。それでそれ以下の幅の道に新しく家を建てるときは、道幅を広げて建てることが多いんです。
歩いていると道と家の敷地の境をあらわす境界標が道路のあちこちにありますが、一直線に並んでいるのではなくて、奥へいったりまた道路沿いに戻ったりという並びになっているのは、江戸時代の狭い道に家を新築するとき、道路を広げたせいなんです。
道幅に注目するだけでも、江戸時代の御家人の組屋敷が、今の住宅街に建て替わっていった様子の一端が見えてきますよね。
ここにあった大番組の組屋敷の中の道は、もともと四角くぐるりと回って元の道に出るようになっていたのですが、今は新しい道もできて、入ってきたのとは反対側の道路に出られるようになっています。
夏目漱石の生家
この反対側の道路が大久保通りです。大久保通りの向かいにある道に入ります。ここはかなり急な下り坂になります。下戸塚坂といいます。
坂道の説明が出ています。江戸時代までは名前のなかった坂だったと書かれています。それが明治時代になり坂の途中に下戸塚町ができたことで、坂道の名前が下戸塚坂になったということです。
これは明治時代終わりころの地図ですが、下戸塚町の町名が描かれています。江戸時代には武家屋敷街には町名がありませんでした。そのため江戸時代の地図のどこにも「下戸塚町」の名はありません。
明治時代になって初めて町名ができ、その町名が坂道の何なったということなのです。
下戸塚坂を下っていきます。ちょっと太い通りに出ましたね。ここは夏目坂といいます。この坂道の下の方に、馬場下町という町がありまして、ここの名主が夏目小兵衛といいました。あの夏目漱石のお父さんです。名主の夏目家があることからこの坂も夏目坂と呼ばれるようになりました。
参考:かつての馬場下町の生家跡にある夏目漱石の碑
謎の庚申塔
江戸時代の地図を見てください。このあたり、赤く塗りつぶされていますよね。この赤いところはお寺を表しています。今もこの辺にはお寺がたくさん見えますよね。
そのうち1軒だけ立ち寄ってみましょう。残念ながら、地図を作るときのミスで、そのお寺だけ赤く塗るのを忘れられてしまっているんです。江戸時代の地図にある来迎寺です。
お寺の山門の前に説明の看板があります。新宿区の文化財で庚申塔って書いてあります。庚申塔をご存じの方はいらっしゃいますか? では簡単に説明します。庚申信仰っていう民間信仰がによって造られるのが庚申塔です。昔の人は体の中には3匹の悪い虫が住んでいると信じていました。その虫は庚申の日、かのえさるの日ですね、この日の夜に寝ている間にこの3匹の虫が体から抜け出して、天帝、天の上にいる神様ですけど、その神様にこの人は日ごろこんなに悪いことをしているんですって、告げ口をしに行くといわれていたんです。そうすると、天帝が怒ってその人の寿命を縮めちゃうと昔の人たちは信じていたんですね。
それだから、もう悪いことをするのはやめましょう、とは人々は考えない。なんと庚申の日の夜は夜寝ないで、3匹の虫が告げ口に行くのを防ごうと考えたんですね。そこで庚申の日には徹夜をする習慣ができました。でも1人でやっていると、どうしても眠くなっちゃいます。それで大勢で集まってお互いに起こし合いながら徹夜をするようになったんです。この徹夜の会のことを庚申講っていいます。
この庚申講を10回ないし18回、庚申の日は60日に1回来ますから3年間で18回ですね、切りのいい回数やったら、その記念に建てるのが庚申塔なんです。それなので、庚申塔をよく見ると、真ん中に彫ってあるのは青面金剛という仏様なのですが、その上の月とお日様は月が出てから夜が明けるまで、鶏は朝を告げる、つまり庚申講の終わりを告げるもの、見ざる聞かざる言わざるの三猿は、庚申の申って猿のことですから、天帝に告げ口しないでねっていう意味があるんです。そして台座には庚申講に参加した人たちの名前が刻まれています。
梵字と三猿の庚申塔
青面金剛が天邪鬼を踏んでいる庚申塔
この庚申塔、実は様々なバリエーションがありまして、どうも建てた人たちが目立とうとしたらしくて、他の庚申塔とはちがうものを造りたがったようにしか思えないんですよね。青面金剛やそれに踏まれている天邪鬼がちょっとずつちがっていたり、庚申塔が燈籠や道標の形をしていたりと、いろんな形があります。道ばたやお寺や神社にあることが多いですから、探してみると面白いですよ。
燈籠の形をした庚申塔
道標も兼ねている庚申塔
須弥山を模している庚申塔
猿が2匹で桃を持っている庚申塔
ところでこの来迎寺にある庚申塔がどうして文化財なのかといいますと、ここを見てください。「湯原郡」って書いてあります。これは武蔵国の荏原郡のことです。東京の南の方の多摩川の近くに「荏原」と呼ばれている地域がありますが、その荏原です。ここは室町時代までは荏原郡だったんですが、江戸時代には豊島郡になるんです。ところが造った年は延宝4年(1676)で江戸時代なのに、荏原を意味する「湯原」って書いてある、だから人々が当時の地名をどう読んでいたかを知る手がかりになるんじゃないかということで、新宿区の文化財になっているんです。
ところでこの庚申信仰と庚申講は、江戸時代に大流行するんですが、最初は天帝をお祭りする宗教行事として、お経を読んだりして徹夜をしていたんですね。ところが、夜中に大の大人が集まったらどういうことになります? そうですね、飲み会が始まっちゃいます。こうして庚申講は、だんだんと2か月に1回近所の人たちが集まって宴会を開く、寝ちゃいけないのに眠くなるお酒を飲むというロシアンルーレットの会みたいになっちゃうんです。しかも時間も徹夜ではなくて、夜中の12時まで、10時まで、8時まで、みたいに宴会お開きの時間がだんだん早くなっていったそうなんですね。
最近ではこういう都市部では庚申講が開かれることはないようなんですが、地方によっては今でもやっているところがあるんですね。宗教行事というよりも、地元の懇親会という性格が強いそうです。私も静岡の方で、平成に建てられた庚申塔を見たことがあります。
平成7年の庚申塔
それではお寺の前の道に戻りましょう。この道も反対側へと渡ります。ここからまた路地に入りますが、こんなところに神社があるんです。この神社というのが・・・
このつづきは有料となります。2~6の各回がそれぞれ150円、ぜんぶまとめてマガジンでご購入いただくと600円です。
2では、さらに細い道の中へ。そして深い窪地の底へと向かっていきます。
現在の地図は国土地理院webサイト、江戸時代の地図はこちずライブラリの復刻版江戸切絵図、明治時代の地図は国立国会図書館デジタルコレクションのものを規約に従い、あるいは許可を得て使用しています。
今回の配付資料
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