web版古地図散歩 本郷~茗荷谷5
【日頃町歩きイベントとして開催している「古地図散歩に行こう!」をweb上で楽しめるようにしました。約5キロを3時間ほどで歩きながらしゃべっているものですが、文章にするととても長くなります。そこで5回に分割しました。有料部分には配付資料も掲載してあります。】
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罰金三百文
旧加賀藩士が地元の後輩たちのために造った学生寮、石川富山明倫学館の前の交差点が、伝通院の西の裏門の跡地になります。ここまでがかつては伝通院の境内でした。ここからは、交差点を左へ進んでいきましょう。
左側に学校がありますね。東京学芸大学付属の竹早小学校・中学校です。昨年の大河ドラマ「いだてん」に東京女子高等師範学校が出てきて、「竹早」と呼ばれてましたよね。江戸時代の地図を見ていただくと、現在の春日通り沿いに「小石川御箪笥町」という町が描いてあります。この箪笥の「箪」の字を分解して「竹」と「早」で竹早町という名前が明治時代に生まれたんだそうです。冗談みたいですけど、地名辞典にも載っている話です。
それにしても「箪」を分解したといっても、「竹」と「早」の間にあった「ツ」はどこにいっちゃったんでしょう?
竹早小学校と中学校沿いの道がゆるい上り坂になっています。ここは三百坂といいます。ここよりも少し北西方向に、播磨坂という桜の名所があるのですが、その辺り一帯は江戸時代には水戸徳川家の分家にあたる松平播磨守家の屋敷がありました。
この松平播磨守家では、殿様が江戸城に登城する日に、家臣たちは殿様がこの坂を通るまでに追いつかねばならず、遅刻をすると300文の罰金が科せられていたというんです。それで三百坂という坂の名前が付いたといいます。
この三百坂を進んでいくと、この先で道が左に曲がってますね。ここを左に曲がると、今度はすぐに右に曲がる。江戸時代の地図を見てみると、やはり道が同じ形をしています。この道の両側は武家屋敷です。そうするとここは枡形だったことが考えられます。「枡形」とは武家屋敷の中の道をわざとクランク型にして、道の先を見通すことができなくした場所のことです。
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