全ては「夢」、かもしれない〜高校時代を振り返って〜
本投稿のGOAL:
・フランスの哲学者ルネ・デカルトの「方法的懐疑」の大枠を理解できる。
・それを自分のことに置き換え、イメージできる。
アルカスユース熊谷、ヘッドコーチの菅原です。
突然の話題です。
1、私の高校時代
大学を卒業してからずっと、学校現場に勤務しています。
過去1年間を除くそのほとんどを、高校で過ごしました。
生徒を間近で見、ふと自分の学生時代を思い返すことがあります。
人生、後悔はつきものだと思うのですが、中でも私がもっとも後悔しているのは、何を隠そう高校時代です。
私は、鳥取県立米子東高校というところに通っていました。
地元では「東高」と呼ばれるこの高校は、県内有数の進学校であり、100年以上の歴史を持つ伝統校です。
合格した時、私の祖母は、
「ああ、ゆうちゃん(=私)も東高生か」
としみじみとしていたものです。
ただ、言わずもがな周囲は勉強の猛者ばかり。
そんな中私は、あろうことか、勉強を早々にドロップアウトしました。
忘れもしませんが、いちばん悪い時の模擬試験の成績は、1学年360人中、359位。
「ああ、もっと勉強をしておけばよかった」
激しく後悔する今日です。
当時の先生方には、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
そんな私が現在、まがりなりにも高校の教員をやっている。
人生とはわからないモノだと、つくづく感じます。
2、勉強の記憶
そんな私でも、忘れられない勉強の記憶があります。
当時、私のクラスの倫理を担当していたのは、私が所属していたラグビー部の顧問、後藤真樹先生でした。
後藤先生の倫理の授業で登場したフランスの哲学者、ルネ・デカルト(写真)。
そのデカルトが唱えた「方法的懐疑」。
数少ない、高校時代の勉強の記憶です。
3、方法的懐疑
うろ覚えなので、詳しく語ることはできません。
詳細は、改めて後藤先生に解説していただきたいくらいです。
デカルトの「方法的懐疑」とは、「懐疑」の文字通り「疑うこと」。
ただ、「全てを疑う」ことに凄みがあります。
例えば「痛い」「辛い」といった感覚は、個人の捉え方次第、と考えることができます。
その時は「痛い」「辛い」と思っても、別の時にはそう思わないかもしれません。
また、そもそも我々が今生きていること自体、現実の中なのか夢の中なのか、誰も証明できませんよね。
少しでも疑わしいものを、方法的に順を追って、全て疑うべきである。
これが「方法的懐疑」。
…だった気がします。
4、コギト・エルゴ・スム
方法的懐疑の理論で考えると、この世でその存在を確実に証明できるものはない、ということになります。
ただデカルトは、唯一その存在を証明できるものを見出します。
それは「考える自己」です。
世の様々を疑い、その結果全ては実在するのかしないのか、真なのか偽なのかわからない、とする中で、確実に存在していることを証明できるのは「こうしたことを考えている自分自身」というわけです。
これをデカルトは、「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」という言葉で表現しました。
5、全ては「夢」、かもしれない
「われ思う、ゆえにわれあり」のカッコよさもさることながら、私の中に強烈にインプットされたのは、方法的懐疑の説明の中で(おそらく)後藤先生がおっしゃった、
「全ては『夢』、かもしれない」
という言葉です。
生きるのは辛く、苦しいです。
それぞれの年代や立場に、それぞれの苦悩があります。
高校当時、一応私も悩んでいました。私なりに。
今思えば「ふざけんなやお前」とでも言ってやりたいような悩みですが。
ただ、そんな中、
「全ては『夢』、かもしれない」
という言葉に、なぜか救われた気がしたんですよね。
勉強もできない(やらない)、ラグビーもお世辞にも上手いと言えない、そんな私は、なぜかこの言葉に感銘を受けました。
「そうか、全部夢か」
と短絡視、楽観視しただけかもしれませんが。
これからも、様々な生徒に出会うことでしょう。
高校生ですから、多感な時期です。
悩みも増えます。
そこで改めて、悩める生徒たちに、
「それ、全部夢かもよ」
とでも言ってみます。
ひょっとしたら救われる生徒がいるかもしれません。
在宅中にふと思い出した、取り止めのない高校時代の話でした。
本日もお読みいただき、ありがとうございます。
ARUKAS YOUTH KUMAGAYA ヘッドコーチ 菅原悠佑
ありがとうございます。今後ともアルカスユース熊谷をよろしくお願いいましたす♪