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【備忘録】都市計画と照らして見る「早稲田大学立て看問題」

早稲田大学では2018年、当局から学生たちに向けて諏訪通り沿いに立て看板が設置できなくなる旨が通告された。起点となる主な要因は「新宿区みどりの条例」のため=緑化 だという。

筆者自身は普段は宮城県・仙台市在住で、本職では曲がりなりにも都市計画に関わっている。本稿は、その視点を活かしながら動向をまとめ直してみたら学生運動史を考える(自治寮の生活文化リサーチも含め)スタディーの一助になるのでは…と自己満足的にまとめたものである。

早稲田大学立て看問題を都市計画(緑化・まちづくり)を照らし合わせて考える

直近の風景

12月末、早稲田の「音楽喫茶 茶箱」に绘画班というユニットで出演してきたので、ライブ前に早稲田大学とその周辺を見てまわった。

以下は早稲田大学・南門周辺のフェンス沿いに設置されていたタテカンである。

キャンパスの外に向けられた早稲田大学立て看同好会のタテカン
キャンパスの外に向けられた早稲田大学立て看同好会のタテカン

冒頭でも触れたが、2018年頃に早稲田大学 諏訪通り沿いに立て看が外むけに立てられなくなる問題が提起された。

2024年12月末時点ではフェンスより手前(道路側)に植栽が植えられている状態が観測できた。

諏訪通り沿い・早稲田大学 戸山キャンパス 早稲田アリーナ,学生会館周辺の様子(2024年12月末)。

※早稲田大学立て看問題については、以下の記事に詳しい経緯等の記述があるため、参考にされたい。

早稲田大学第二学生会館と緑化計画

以上を踏まえ、早稲田大学第二学生会館竣工から早稲田大学における学生運動の動向、そして新宿区の条例や公開空地の設置など、緑化の流れをおおまかに時系列で並べてみる。

1965年:早稲田大学第二学生会館 竣工

1969年4月頃:第2次早大闘争(学費値上げや新設される学生会館の管理問題からノンセクトの学生中心に本部第二学生会館を学生が占拠)

※第1次早大闘争については以下の記事に詳しい動向の記述があるため、参考にされたい。

※第3次早大闘争については書籍「全共闘晩期」でわかりやすく触れられているため、こちらを参考にされたい。

1969年10月頃:機動隊が導入され、占拠の強制解除執行。以後閉鎖が続く。

1980年:部分的に利用が再開

1990年:改修工事の後、全館の利用再開

1998年:新学生会館着工

2001年頃:早大地下部室闘争(学生会館建設のため、サークルスペースの封鎖をめぐって)

→第一、第二学生会館の利用中止と解体が決定。新学生会館完成〜供用開始

2002年:第二学生会館の解体開始

2006年3月25日:早稲田大学に公開空地が設置される

※公開空地とは

一般的に、ビルやマンション等の敷地内に設けられる、一般の方も自由に出入りできる空間・区域を指す。民間企業等が建物を新たに建設する際に、1階部分に広場状のまとまったスペースや、敷地内に歩行者が安心して歩ける歩道状のスペースを設けるようなデザイン・設計の建物を計画する場合、行政が扱っている総合設計制度を使うことができる。それにより、容積率割増や高さ制限容積率等の一部緩和を受けられる。

2008年7月18日〜:新宿区が景観行政団体となる

2009年4月1日〜:新宿区景観まちづくり計画(景観法第8条)の運用開始

以下ボディコピーは2022年時点の新宿区景観まちづくり計画から引用した。なお、2009年時点で既にまちの記憶をいかした「美しい新宿」にというコピーが新宿区HPにて採用されている

区は、豊島台地、淀橋台地とそれらに挟まれて東西に伸びる河川沿いの低地で構成されています。この低地に沿って、神田川、妙正寺川、外濠(史跡江戸城外堀跡)などの水面が区の外周を取り巻き、さらには新宿御苑や明治神宮外苑、斜面緑地などの貴重な自然が残っています。

このような変化に富んだ地形の上に、土地利用や街路形成の変遷、そこで展開されてきた人々の営みの歴史や文化など、それぞれの地域に刻まれた「まちの記憶」が積み重なり、時を経ながら徐々に個性豊かな景観が形成されてきました。 このような沿革により、区内には超高層のビル群からみどり濃い住宅地まで、世界最大級の繁華街から地域の風情ある商店街まで、江戸の歴史を感じさせる路地からアジアの異国情緒あふれる通りまで、南北4キロ、東西5キロの範囲に、実に個性的で多様な景観が形成されています。
しかし、一方で、経済性や効率性を重視した建築行為や公共事業等によって、まちの特性や歴史を体現してきた個性的なまちなみや、貴重な緑や水辺などの自然を失う可能性があります。

こうした視点に立ったとき、何よりも重要なことは、今もなお、多くの地域で輝きを放っている「個性的で多様な景観」を、区の魅力として、また、貴重な財産として活かしながら、まちづくりを推進していくことです。良好な景観を形成することは、区民にとって潤いのある豊かな生活環境を創造するだけでなく、人の心を豊かにし、更に地域の活性化や観光の振興にも大きく貢献していくことは、幾多の事例からも明らかです。 今後は、東京都や隣接区とも連携を図りながら、地域の個性に光をあてた景観まちづくりを推進していきます。

新宿区景観まちづくり計画 ※2022時点より引用:https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000347911.pdf

2018年:新宿区みどりの基本計画 改訂(起点となる基本計画の構想、検討は1989年からスタート)

個人的まとめ

当局はなぜ早めに学生と対話できないのか、マジで

2006年、大学敷地内に公開空地ができた=以下記事引用から3号館(政治経済学部)建設に向けた容積率等条件緩和のため と推測される。

早稲田大学の場合、新宿区の「みどりの条例」のため、戸山キャンパス(学生たちはこのキャンパスを「文キャン」と呼ぶ)の諏訪通り沿いのフェンスを撤去せざるをえなくなったのである。言ってしまえば、立て看板そのものが条例によって否定されたわけではなく、立て看板を立てるためのフェンスが撤去されてしまうことになったのである。大学側の説明によれば、「みどりの条例」では、ある一定程度のサイズの建物を新設すると、その建物を含む施設の接道部分を緑地化しなければならない。すでにこの条例に従って早稲田大学は接道部を緑地化していて、現在政治経済学部が入っている3号館が建設された際に早稲田キャンパスの接道部における緑地を設置した。

引用:https://note.com/saito_ken/n/n44c4e2622675

しかし、2002年には第二学生会館の解体が始まっていた。

2018年に新宿区みどりの基本計画 改訂があったとはいえ、それまでの経緯としてパブリックコメントや協議会等のプロセスを踏んでいたことが予測されるため、当局は「いつまでに、どこを、どうする」と詳細までいかずとも敷地内の更なる緑化もしくはオープンスペースの施工を元々予測できていたのではないだろうか。

ここから先はかなり個人的なぼやきであるが、私は全国的に緑化計画に力を入れすぎだと思っている。私の住む仙台も元々緑豊かな杜の都だとブランディングされており、仙台都心部の景観条例もかっちりしている。容積率緩和のための公開空地設置や緑化に関する制度も、大まかな部分では都内と一緒である。

まちの記憶をいかした「美しい新宿」

引用:https://www.city.shinjuku.lg.jp/whatsnew/pub/2009/0331-01.html

うーん、私が学生運動史に関心がなかったとして、都市計画の観点からも考えさせられてしまうものがある。緑でいっぱいなことが本当に「良いまち」の条件なのだろうか。

「40年 早稲田の街を見てきました🎵」

早大南門通りの不動産屋 ㈱サマージの張り紙(店舗情報補足:きょうのW稲田界隈住みの戯言 さんより)

また、話は少し変わってこちらのシュールな張り紙に視座を向ける。

1952年から続く歴史のある不動産屋さんなのだという。

「40年 早稲田の街を見てきました🎵治安の良い街 安心です」。

この40年はいつ頃からを指すのだろうか。第二次大学紛争の強制解除後、第二学生会館(解体前)の一部利用再開が1980年頃だと思うと、その頃がだいたい40年前にあたる。

いつ頃貼られた張り紙なのかによって「治安の良い街安心です」の受け止め方が変わると思うのは私だけであろうか。

参考URL等:

新宿区景観まちづくりの変遷(最終更新2024)

早稲田大学第二学生会館(2007)


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