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金に怯え、自己破産人生から救われた話
エイブラハムの動画を久々に見た。
借金で苦しんでいる女性とのセッションの動画だ。
それで、いろいろと過去のことを思い出した。
当時、毎月来る請求書に怯えていた。
何度も督促が来て、いつ破綻するのかビクビクしながら、どれくらいの月日を過ごしただろう。
請求書や請求してくる者すべてが、悪魔に思えた。
スーパーやコンビニでの100円もしない買い物でさえ、これを本当に買っていいのだろうかとためらった。
ボロボロの服でも、着続けた。
それでも財布や口座はいつも空っぽになっては、借金をしたり、支払いを先延ばしにした。
何かを払うたびに胸が苦しくなる。
また無くなった。
また出ていった。
貯めよう貯めようとひたすら握りしめるほど、指の隙間からポロポロポロポロとこぼれ落ちていく。
どんなに隙間をふさいでも、穴の空いたバケツから、どんどんこぼれ落ちていく。
こんなに働いてるのに。
こんなに身を削ってるのに。
贅沢してるわけでもなく、ただ人並みに生活がしたいだけなのに。
稼いでも稼いでも膨らむ支出。
払えず延滞のせいで、ますます支払いは膨らんでいく。
払っても払っても終わらない苦しみ。
支払ってもまた届く請求書の山。
自己破産を決めて、弁護士に依頼してからも、その不安は消えることはなかった。
藁をもつかむ思いで、グルにすがった。
まず教わったのは、瞑想でも、スピリチュアルな話でもなく、お金を捧げることだった。
グルは言った。
今まで欲しい欲しい、足りない足りないと何かを求めては、自分にくっつけようとしてきた。
くっつけてもくっつけても、幸せは訪れなかった。
むしろくっつければくっつけるほど、重たく身動きが取れず、豊かさは離れるばかりだった。
それならこれからは、くっつける生き方ではなく、「与える生き方」、「捧げる生き方」、「手放す生き方」をしなさい。
「今までとは反対の生き方をしなさい」、と。
はじめは、布施することもはばかられた。
1円でも惜しいと思った。
手放すことが苦しかった。
なんでお金を渡さなければいけないのか。
救いを求めてる弱者に、なぜ苦しみを増やすかのようにお金を払わせるのか、とさえ思った。
手放すたびに、本当にこれで大丈夫なのかと不安や恐れや疑いが募った。
それでもえいやと、グルに捧げる生き方を少しずつはじめて、人に与える生き方を少しずつ重ねて、ある日、気づいた。
お金を払うことが、満足感や自己効力感になってることに。
お金を払うことが、苦しみじゃなくなってることに。
お金を払うと、よし払えたと満足して喜んでいる自分に。
請求書が怖くなくなった。請求書が届くと、よし払おうと思えるようになった。
あんなに請求書で溜まっていた郵便ポストが、いつもスッキリ片付くようになった。
家計簿アプリの支出を見るのが、あんなに怖かったのに、履歴を見るのが楽しくなった。
ちゃんと払えてる自分が誇らしくなった。
使ったものを使っただけ、払えることが嬉しくなった。
利子や支払いを受け取って、会社やその人たちの生活の生活が潤うことも良いことだと思えた。
人に少しでも与えたら、十分な見返りがないときは憤慨していた。
そんなこと、今では考えられないくらい、どこか夢の中のおぼろげな記憶になった。
何にあんなに怯えていたのか、今はもうわからない。
払えてる幸せ、人生を掌握できているような感覚。
必要なときに、ちゃんと使えるお金や方法がやってくるんだということが、わかるようになった。
結局、自己破産はしないことにした。
借金を返す約束をして、それをちゃんと果たせるようになったことが、こんなに自分の人生を豊かに変えてくれるとは思わなかった。
受け取ったら必ず同じ質量のものを手放さなくてはいけない。
より大きな豊かさを得たいなら、まず自分から差し出さなくてはいけない。
それが富裕層がしていて、よく成功哲学でいわれる「10%の寄付」だった。
与えるものはさらに与えられ、
奪うものはさらに奪われる。
得しようとすればするほど損して、
はじめに損と思えるようなことが得になってくる。
シンプルな法則だけど、自分の力だけでは、負の連鎖から抜け出すのはなかなかに難しい。
わかっちゃいるけどやめられないことを、グルはいとも簡単に消してくれる。
くっつけたがるのは、エゴの仕業。
手放すことは、エゴを外すこと。
エゴを手放すのに一番効果的なのは、誰でも生きるのに必要があり、最も執着している「お金」を手放すこと。
負の連鎖を、気づかぬ間に外してくれた奇跡。