私の両親
大阪の西成で、ある木材の工場で二人は出会ったのね。
そして、大恋愛で、同棲して結婚した。
私は同棲中にどうやら身籠もられた子どもだった。
昭和40年代の西成って、スラム街のような所だった。
そんな所で、両親は新婚生活をスタートさせた。
私がお腹に居るとき、父はいつもの如く、仕事して朝まで仕事仲間と飲んで、帰ってきた。
セントバーナードを連れて。
そっと母の布団にそのデカい犬を入れて、母を驚かせた。
父の浮気騒動。お腹に私が居るとき、母は父の帰りが遅くなり、押し入れに隠れて眠ってしまう。
父は母が居ないので、慌てて母の実家に電話したりしたらしい。
そしたら、押し入れに母が眠りこけてた、なんていうエピソードや、雨の降る屋上に母が居て、飛び降りるんじゃないかと心配になる父。
全て私がお腹に居るときの事件。
そして、私がいよいよ生まれる月になり、父は職場の人たちと「男の子か女の子か」賭けをしたらしい。女の子だと思う人は、女の子用の洋服や玩具を、男の子だと思う人は、男の子の服や玩具を賭けたらしい。
男の子に賭けた人が多くて、ね。
生まれたら、私は女の子だった。
私は賭けられて、生まれてきた。
そして、母は、仕方なく男の子の服を私に着せた。沢山あるから仕方なく。
私は3歳くらいまで髪の毛があまり生えなくて、男の子に間違えられていた。
でも、髪の毛のせいじゃない、洋服のせいだよね。
いい迷惑。
父が仕事から帰って、昼間からビールを飲むから、私も3歳なのに飲まされた。
刺身を食べさせられ、毒消しだとかいって、ビールも少し飲ませたそう。
仕事はできる父。
でも、遊び人。
母は、真面目。でも、関西人のユーモアたっぷり秘めていた。
献身的に専業主婦をしていた。
私が幼稚園に入り、幼稚園から帰ると、よく椅子に座ってうちわで扇ぎながら、大股を開いて、オッパイの大きなおばちゃんが、「お帰りー」と出迎えてくれていた。
私は「ボインのおばちゃん」と呼んで、いつもおばちゃんのオッパイにうずくまって、その柔らかなオッパイに甘えていた。
マツコデラックス並みの巨体のボインのおばちゃん。
今で言うベイマックスかしら。
ホッとできる瞬間だった。
父は毎日遅くまで働き、飲み、朝帰る。
だから、初めの頃は、うちに来る変なおじさんと思っていた。
朝は、五時半頃には、出勤なので、父と会うことはあまりなくて、時々、朝早く起きたら、父が居て、「行ってらっしゃい」ではなく、「バイバイ、また来てね」というのが、挨拶だった。
朝、仕事から帰る途中に、父は軽トラックにはねられた。
自転車に乗っててね。吹き飛ばされた。
そのまま、入院。幸い、腰を強く打ったけど、死なずに元気だったらしい。
入院中も、仕事仲間が見舞いに来ては病室で酒盛り。
廊下には空き瓶が並ぶほどだったとか。
その間、母は、私と2歳下の弟をおぶっては、銭湯通い。
ホームレスの人がゴザを敷いて横たわる通りをすり抜けて銭湯に行く。
一度銭湯で私と弟をお風呂に入れてのぼせて倒れたらしい。
母は、貧血だった。
本当に母は、一生懸命、私たちを育てていた。
高度経済成長期の頃は、こんな感じだったのね。
男尊女卑の時代。
バカみたい、と物心つく頃には、感じていた。
結婚適齢期という言葉も、私は嫌いだった。
周りから「そろそろ結婚は?」と言われる言葉に「ほっといてよ、何が結婚適齢期よ!結婚するかしないかは、私が決めるの。誰が決めたか知らないけどさ、結婚適齢期なんてね、あたしが決めるのよ!」
と反抗しまくっていた。
もうその頃は、父の仕事の関係で広島県に引っ越していた。
私は広島の陰気くさい空気がイヤだった。活気のない、人が何を考えてるか、分かりにくい、感じが馴染めなかった。
関西弁を馬鹿にされてイジメにもあった。
「ふん、田舎もんが!悔しかったら私みたいにおしゃれしてみぃ!」と心に思ってた。
でも、それを面と向かって言えない奥手な私だった。
父は仕事で忙しく、相変わらずでした。
母も一人で子育てして、専業主婦で、ストレスが溜まっていた。
近所に大阪から一緒に引っ越した父の職場仲間の家族とよく家族ぐるみで付き合いしていた。
母はその、おばちゃんとよく夫の愚痴や夜の夫婦の営みについての不満を煙草を吸いながら喋っていた。
そんな、夫婦の関係、妻たちのストレス発散を小さい頃から見てきた。
そんなことが、なぜか面白い時代でした。
父は夜中でも職場の後輩を連れ帰っては、母を起こして酒の相手をさせていた。
寝不足で不機嫌な朝を迎える父と母。
朝、夫婦げんかになり、父はちゃぶ台をひっくり返して、朝ごはんを台なしにしてしまう。
私たちもとばっちり。空腹を我慢しながら学校に行ったこともあったなぁ。
ホントに色々あった。
でも、父は子どもには優しかった。
絶対に手を上げることはなかった。
それはね、空手をしていたから、手が凶器になるのね。
私が高校生の頃、暴走族が家の近くにやって来て、私は二階で寝ていたのに、父は私が暴走族と一緒に、出て行ったと思ったらしく、その暴走族の車を追いかけ、走り去ろうとする車の後ろの窓ガラスをぶち叩いて割ってしまった。
怒った暴走族たちは、家に押しかけてきて、おどりゃすどりゃの大騒動。
父の手から血が出てたのを族の一人が気付いて、「素手で割ったんか?」と聞いた。
「おーそうじゃ」という父に今度は、びびってしまったという話。もう、伝説的な話です。
私はいい子にして寝てたのにね。それから、しばらく、私の父は「怖い」という噂が暴走族の間で流れたらしい。
その暴走族たちは、夜な夜なナンパにうちの家の前によく来ていた。
思春期の反抗期、グレてしまった私を父はもう為す術もなく、悩んでいた。
私も夜盗虫の如く、毎夜家を出ては暴走に明け暮れていた。
そんな娘を母は、心配に心配をして、家から出ないように、夜通し起きて私を見張っていた。
今思えば、安心できる家庭環境だったなと、そんな母をウザイと思いつつも、そこまで体を張って私を見守ってくれていたことは、グレてても、嬉しかったし、後にそんな私は、母の愛の大きさを知っていくのであります。
ただね、残念だったのは、私が結婚して2人の子どもが産まれた矢先に、父は交通事故で亡くなってしまったの。
母もね、同じ年の一月半後に亡くなってしまったの。
でもね、母が亡くなる前に弟が両親の夢を見たって。それを聞いて、私は安堵したの。
それは、若い時の両親が腕を組んで小高い丘を歩いていく夢。
そうか、父が母を連れて行ったんだと思った。
そんなね、私の人生は、今のところ、苦しいけれど楽しいのよ。
そりゃ、もう涙は涸れ果てるくらい泣いたけどね。泣くというか吠えながら泣くのよ(笑)
今思えば滑稽。でもそんな自分、よくやったよ。死ななかったんだからね。
笑うしかない、今はね。
明日のことは誰にもわからないもんね。
人生なんて、わからない方が良いのよ。
自分がこの先どうなっていくのかを勝手に決めてはいけないのよ。
自分ではなんも決められないのだから。
なんか悟ったようなこと言ってるけど、私はちっぽけな柔な人間です。
でも、なんかね、いろんな事を通して強められた感じがしてます。
だからね、この体験を誰かのために役立てたい。
こんな私で良ければ、ね。